いわゆる「邪馬台国」について(その3)

えー、久々に考察してみました。以前のまとめも参照してみてくださいね。 少し思索を付け足しました。「伊都国=吉野ヶ里遺跡」説です。
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じねん @jinensai

陳寿は「臺」と「壹」の書き間違いをしていないという前提を押し通すためであろうが、この「景初二年」はいただけない。そこを何とかするために生口の人数などがかつての倭王帥升に比べ遥かに見劣りする事実を魏と公孫氏の対峙中のためとした逆転の発想は確かに見事だ。(銭湯サウナで思索中)

2014-08-06 21:34:33
じねん @jinensai

しかし日中の史家が過去から現在に至るまで、いずれも「景初二年六月」ではなく「景初三年六月」が正解だと解析している事実は重い。生口の人数などが見劣りする原因に別解が立てられれば「戦中使者」説は崩壊するはずだ。「共立」基盤の脆弱さに求めることも可能である。(銭湯サウナで思索中)

2014-08-06 21:43:05
じねん @jinensai

というわけで文献的にも「景初二年」説は成り立ちがたいわけだけど、引導渡すためには別のアプローチも必要なわけだ。それこそが邪馬台国近畿説の要である三角縁神獣の「景初三年鏡」だと思う。以前痛Tシャツに例えたことがあるけど、意匠として使う場合でも元の意味は尊重される。(某書店で思索中)

2014-08-06 22:46:43
じねん @jinensai

三角縁神獣鏡は卑弥呼の壮挙へあやかった人気抜群の副葬品と私は見てるわけだが、もしも卑弥呼の遣使が「景初二年」ならば、銘文は間違いなく「景初二年」と鋳造されたはずだ。だが実態はさにあらず「景初三年」や「景初四年」である。人間の正常な感性で「景初二年」は有り得ない。(某書店で思索中)

2014-08-06 22:55:08
じねん @jinensai

痛Tシャツとて「since~」と、何かの記念の年を意匠としてプリントするとして、全く無意味な年をプリントしたりはしない。古今東西過去から現在に至る人間の感性に照らして、この感覚は腑に落ちるレベルだと思う。陳寿とて書き間違いは犯すのである。「人間だもの」(みつを)(某書店で思索中)

2014-08-06 23:03:35