名将言行録まとめ2

毛利元就、吉川元春、小早川隆景、細川幽斎、細川藤孝、細川忠興の頁まとめ。
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宇治丸 @uzi_unagi

隆景が亡くなった後如水曰く「日本に賢人はなくなった。隆景は毛利家の船頭だ。中国を上手く統治していたため、彼亡き今存命の頃と変わらないのは、その余力があるからだ。船を漕ぐことをやめても勢いは残り進むようなものだ。輝元も今は隆景の恩恵で見事に見えるが、これからは思案が大事になる」と。

2015-09-30 13:51:10
リンク Wikipedia 細川幽斎 細川 幽斎 / 細川 藤孝(ほそかわ ゆうさい / ほそかわ ふじたか)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。歌人。幽斎は雅号。法名を玄旨という。 初め室町幕府13代将軍・足利義輝に仕え、その死後は15代将軍・足利義昭の擁立に尽力するが、後に織田信長に従い、長岡 藤孝(ながおか ふじたか)を名乗って丹後宮津11万石の大名となった。本能寺の変の後、主君・信長の死に殉じて剃髪し、家督を忠興に譲るが、その後も豊臣秀吉、徳川家康に仕えて重用され、近世大名肥後細川家の礎となった。また、二条流の歌道伝承者
宇治丸 @uzi_unagi

幽斎は歌道は公家の物で武士が嗜むものではないと思っていたが敵を見失った時に歌の心得ある者が「君はまだ遠くにはいない。我が袖の涙はまだ乾いていないから」という古い歌があるのでと馬を撫でるとまだ温かかい。近くにいるはずだという通りに探してみると、見つかった。それから歌道に入ったという

2015-10-02 13:47:07
宇治丸 @uzi_unagi

神社の人「藤孝殿!どうしてあなたが油を盗んだりするんですか」藤孝「勉強の為に明かりが欲しいのに貧しくて油がなく…勉学の為なら神様も許してくれるかなって…」「そこまで不自由していたとは(油を入れた徳利ひと瓶を渡し」 知り合いなら頼めよ! pic.twitter.com/likhKY9c4H

2015-10-07 14:45:35
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宇治丸 @uzi_unagi

検地の際それを嫌がった神主たちが色々と偽りを述べた為に幽斎は「見懲らし(見せしめみたいな意味」の為切り捨てた。 幽斎さんも結構バッサリ行く人やね

2015-10-07 14:52:13
宇治丸 @uzi_unagi

藤孝は驕らず、温和で慈恵深い人であった。 数多の小姓が狂い騒いでも少しも咎めなかった。 「武家に仕える者はいつ命を落としてもおかしくない。可哀想に(?)子供らが騒いだといって制することはない。そうすればこの者らは自身の親よりも大事に思い、大名となってもこの家を出ることはなかろう」

2015-10-07 15:00:42
宇治丸 @uzi_unagi

@uzi_unagi 原文 「子供が騒いでも制しない」とか「小姓が騒いでも怒らない」とか「ですよね、わかります」っていう人が浮かぶ pic.twitter.com/UG2MjXmW2t

2015-10-07 15:02:00
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宇治丸 @uzi_unagi

藤孝は忠興に「少し和歌を学びなさい。年老いてから楽しみになるから」というと忠興は「私などがなまじ(中途半端に)歌など読んでは結局父の名を汚すことになりかねない」という。藤孝は「いらぬ世話だ。お前のような者が五人十人いたとて我らの歌道が汚れることはない」といった。

2015-10-08 11:43:21
宇治丸 @uzi_unagi

@uzi_unagi 忠興が後々まで和歌を学んでいれば年老いて退屈する事もなかっただろうに、八十になって親の言葉を「質にも(預かっていれば?とっておけば?)」と思ったものだと言ったそうだ。

2015-10-08 11:47:49
宇治丸 @uzi_unagi

この親子二人とも言葉が攻撃的じゃないか。きのせいか。

2015-10-08 11:48:38
宇治丸 @uzi_unagi

松永貞徳が人に語るには「私は藤孝に従って学んでいる。聚楽第あるいは吉田(京都府左京区の吉田?)または田辺(京都府南部)まで訪ねに行ったが、いつも機嫌が悪いことはなく何事を尋ねても乳飲み子の口に物を含ませるように教えてくれる」 半ばストーカーでは…(

2015-10-08 11:59:53
宇治丸 @uzi_unagi

藤孝には腕力があった。牛車が突っ込んでくるのに向かい、角を持って押しやると、牛は後退りした。また、北畠信雄邸で能が行われた際、門番が通さじと竹杖を振り上げたのを藤孝は手を掴んで骨を砕いた。「それは若い頃の話で今は腕も落ちた。今は歌ばかり読んでいるので心はその頃より優れている」

2015-10-08 13:35:51
宇治丸 @uzi_unagi

いつも風流の人と名高かった幽斎さん。彼は茶道も一流だった(なんでもできる)ある日蒲生氏郷(焼肉パーティといい細川と仲が良い)が「道具を見せてほしい」と日時を約束して見に行くと、邸内には細川家伝の鎧や太刀や槍が飾られてあった。

2015-10-08 13:44:20
宇治丸 @uzi_unagi

@uzi_unagi 「えっ!?あの、見たかったのは茶道具なんですが…」「おや、道具というので武具の事かと思いました(武士だし)お安いご用です。茶道具もどうぞ見てください」と茶器数種を見せてくれた。

2015-10-08 13:44:27
宇治丸 @uzi_unagi

藤孝は何某かの井戸茶碗を見たいということで茶の湯に行った。例の井戸茶碗でない茶碗を使っているのはなぜかと尋ねると「小姓が誤って割ったので」と答えた。「ならばその欠けを見せてほしい」と硯を引き寄せ

2015-10-08 13:56:56
宇治丸 @uzi_unagi

@uzi_unagi 「筒井筒 五つに 割れし 井戸茶碗 罪おば 我に しらしめしな」と書き小姓を許してほしいと言った。その厚意に免じて小姓は許された。 詳しくはこちらのブログに ameblo.jp/simomiyabi/ent… 秀吉の秘蔵の茶碗だった。

2015-10-08 13:58:18
宇治丸 @uzi_unagi

@uzi_unagi 「筒井筒 五つに 割れし 井戸茶碗」筒井筒は茶碗の銘。5つに割れた茶碗と、当時朝鮮出兵で戦乱に荒れ割れる五大陸とをかけた句らしい。「罪おば 我に しらしめしな」罰するなら私を罰してほしい。小姓の事もだが、出兵について切腹覚悟で意見しますということらしい。

2015-10-08 14:01:11
宇治丸 @uzi_unagi

次の話ちょっとよくわからないんよ。幽斎さんが太鼓を習いに行く話(今度は太鼓か)「とてもうまいんだけどキレが悪い。そこだけだめ」と言われる幽斎さん。合点がいかずにいると、ある時弓の弦が切れたので弓を地面に投げた(!)ところ「なるほどこれか!」と思い立った。

2015-10-08 14:15:09
宇治丸 @uzi_unagi

@uzi_unagi 太鼓の師匠を呼び出して聞いてもらうと「キレキレだね!」とのこと。また、三井寺に参詣した際笛の音を聞いて…のあとがわからず。技芸に優れた人って逸話らしい。 pic.twitter.com/kbJJk7bMe8

2015-10-08 14:15:53
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宇治丸 @uzi_unagi

藤孝は 鯉をきろうとした! 火箸に あたって きれない! どうする?  あきらめる  →火箸ごと切る 藤孝は 鯉を火箸ごと切った! まな板まで 切れてしまった! 「名人は難局にあっても悩まないものです」 pic.twitter.com/1soz5RT3lh

2015-10-08 14:21:58
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宇治丸 @uzi_unagi

「武道はもちろん、和歌もできて舞踊も得意で文字も綺麗な人がいれば召し抱えたいよね。私のような小禄の人間には何人も召し抱える余裕なんてないし?まあいないだろうけどねえ」「それなら一人だけいますよ。細川藤孝殿です」「嘘つけ」みたいなことか pic.twitter.com/2EZFlcmwk6

2015-10-08 14:27:57
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宇治丸 @uzi_unagi

著書も多くて家康に頼まれて書いたものもあるんだとか。スーパーマルチ武将細川藤孝。

2015-10-08 14:29:34
宇治丸 @uzi_unagi

作者「後世にあまり歌が残っていない為和歌が上手というわけでもない。歌学者としては他に人がいないので貴重だったのは確かだ。学問、教養、風流の道に長けて温容な人物だったが、光秀謀反の際は自ら髷を落として動かないという機略にも長けた人だ。ただ大身になったのは子の忠興の力による点も多い」

2015-10-08 14:35:46
リンク Wikipedia 細川忠興 細川 忠興(ほそかわ ただおき) / 長岡 忠興(ながおか ただおき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。丹後国宮津城主を経て、豊前小倉藩の初代藩主。肥後細川家初代。 足利氏の支流・細川氏の出身である。正室は明智光秀の娘・玉子(通称細川ガラシャ)。室町幕府将軍・足利義昭追放後は長岡氏を称し、その後は羽柴氏も称したが、大坂の陣後に細川氏へ復した。 足利義昭、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と、時の有力者に仕えて、現在まで続く肥後細川家の基礎を築いた。また父・幽斎と同じく、教養人・茶人の細川 三斎(
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