- ryusukematsuo
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@t_ohnuki これに対しては「然り」というお答えになると思います。過去のある時代の政治思想を、現代の政治学の発想を離れて、同時代の文脈や世界観に即して内在的に理解することの重要性は何度も繰り返し唱えられてきたように思います。
2014-09-03 04:53:51@t_ohnuki 折り合いがつかぬまま、ヒストリカルな研究は撤退戦を強いられているというのが現状だと思います。このことは最近完結した岩波の講座が「政治思想史」ではなく「政治哲学」であったことからも明らかと言えるでしょう。「哲学的普遍主義」は「歴史的文脈主義」を退けつつあります。
2014-09-03 04:57:51@odg1967 なるほど…。昨今「で、それは今何の役に立つの?」という短絡的な疑問を各分野投げつけられているわけですが、歴史学は対象をひとまず現在と切り離すため、なかなかそういう輩に理解してもらえそうな回答ができないのですよね。その点「政治哲学」とするとまだ生き延びられそう…。
2014-09-03 05:09:15@t_ohnuki たとえば哲学・倫理学のひとたちは、既に、もはやほかの選択肢はないという認識の下、応用倫理学や生命倫理学として生き延びる方途を探っているように思われます。
2014-09-03 05:17:50@kunisakamoto @tatewakiyokado @concentusmn @microcosmos001 @t_ohnuki ここは水田洋先生の次の言葉を振り返るべきか、と。
2014-09-03 07:17:49「ラヴジョイが比較文学の研究者にあたえたような新鮮な衝撃を、スキナーは政治思想史の研究者にあたえた。衝撃のつよさは、うけた側の事情にもよるのであって、比較文学については、横ならびで異同を論じるだけであったところに、単一観念で一本の筋をとおすことをラヴジョイにおしえられたわけで+
2014-09-03 07:18:41+ある。他方、政治思想史は、これまで政治哲学への準備作業とみなされることがおおく、コンテクストどころかテクスト・クリティクさえ軽視されがちであった。とくに日本では政治思想史が原典によって研究されるようになったのは、比較的最近のことであり、+
2014-09-03 07:18:58+社会思想史も、経済思想史とのむすびつきがなければ、同様だったといえるだろう。」(水田洋『思想の国際転位』序)
2014-09-03 07:19:07ここには以下のような注もあります。「ふるいタイプの例として、岩波文庫版のロック『市民政府論』(鵜飼信成訳、一九六七年) がある。これは原典の第一篇とラズレット版テクストの双方を無視した翻訳で、ある政治思想史家は「犯罪的」とよんだ」(同)
2014-09-03 07:20:14スキナー『思想史とは何か』以後、いわゆるケンブリッジ派によって大きく事態は変わったのではないでしょうか。先日に来日したアン・トムソンもケンブリッジです。
2014-09-03 07:22:29同じ「思想史」といっても対象と制度によって異なる「複数的」なものである(日本においても)というのが第一のご指摘。またラヴジョイの「観念史」における動態性の欠如、スキナーの「コンテクスト主義」における思想の歴史的文脈のなかへの「閉じ込め」の危険が第二の。いずれも正鵠を射ているかと。
2014-09-03 07:44:50くだんの本に関していえば、『未來』連載時から読んでおりますが、興味深い優れたエッセイであったと思っております。ヒライ=小澤さんのラインのインテレクチュアル・ヒストリーと生産的な交叉があれば素晴らしいと、私自身は思っています。
2014-09-03 07:50:42これはわたしの狭い心に刻んでおこう。>"哲学になるのであれば、それはそれで価値あるものだと思うんですが、この手合いは思想(哲学)も歴史も「自分語り」のエセーを記すために使う傾向がありますよね。"
2014-09-03 15:59:34@fujitayuh 個人的には、日本語の「思想史」というのが曖昧な概念で、なんでも突っ込んでしまう傾向があり、他方で、日本の歴史家たちは、思想史は自分たちの関与する場ではないという雰囲気があることが問題かなと思っています。
2014-09-09 18:28:33@fujitayuh 思想史と哲学史の違い、もっというと思想と哲学の違いのある・なしから考えないといけないと思います。政治思想史の人たちは思想史という言葉を好むようですが、彼らがインテレクチュアル・ヒストリーをどう考えているかには関心をもっています。
2014-09-09 19:49:09政治学者が関わっている思想史だと、科目名だけで言えば、東大は「政治学史」、早稲田は「政治理論史」、京大は「政治思想史」だったかな。ぼくが神戸大の学部生の頃(80年代半ば)は、各々の担当者にもこだわりがあったという噂を耳に。佐々木毅先生、藤原保信先生、勝田吉太郎先生。
2014-09-09 21:24:04@odg1967 指導教員の話と各先生の著作から憶測するに、あくまでも政治学という学問の枠組みを前提とした「政治学史」、理論としての体系性と規範性を強調する「政治理論史」、学や理論になる以前のドロドロとしたパトスのありように着目する「思想史」という自己理解の違いはあったのかなと。
2014-09-09 21:28:29@odg1967 その三者の拮抗を眺めながら、カッシーラーの『認識問題』と格闘しつつ、自分なりの思想史方法論の構築に努めていたのがうちのせんせいで、その成果は教科書として構想された『精神史としての政治思想史』にぶち込まれている。わたしはこれを院試対策で読まざるを得なかった。
2014-09-09 21:33:20カノニカルなものを扱うのが哲学で、そうでないものが思想だと答える人がいます。すると、政治思想史はカノニカルでない人物を扱っているのか?という疑問が出てきます。僕の印象では、答は否です。カノン性というのは、その時代時代の恣意的な判断で、本質的な問題ではないと思います。
2014-09-09 21:38:12歴史家には、思想史とくくられるものは自分たちの扱う領域ではないと敬遠する雰囲気があるような気がしますが、意味不明な棲み分けだと僕には思えます。歴史家は、あらゆる歴史現象を探究の対象ととらえるマインドを持つべきだと考えています(自分が研究するかしないかは別)。
2014-09-09 21:44:08@odg1967 学部三回生のときに林達夫と高山宏と若桑みどりを集中的に読んでいた時期があって、法学部の教員がそんなの読んでるわけないだろうとワイリー・サイファーの三部作についてゼミ報告をしたら、うちのせんせいはそういうの全部読んでいて…
2014-09-09 21:46:03