信長など「天下人」は日本統治を、京都で『押し付け』られた?との仮説
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@dokudamiY 三好三人衆は阿波三好家、というか篠原長房の一種の傀儡でしょうね。松永久秀は三好宗家派だったと思います。
2015-01-16 01:01:20足利義輝は三好長慶の死後、将軍の権力回復を図ったのだろうけど、それがどれほど危険なことか周りは理解していたのに、義輝はあえて虎の尾を踏みに行ったというイメージ。
2015-01-16 01:05:00当時、長慶が死んでもそれなりに機能し安定していた中、形式上その頂点にあった将軍自身が不安定要因になった、という状況だったのだろうなあ。
2015-01-16 01:06:44@1059kanri 久秀に関しては最近研究もおおいに進んではいるようですが、正直久秀を三好宗家派と見做すにはまだ根拠になる史料が足りてない以上、評価しようがないなあ…と思ってます。ただ巷間言われるような梟雄ではないだろうなとは僕も思います。
2015-01-16 01:08:58@1059kanri 義輝の美化によって今まで三好が下克上の悪党のように扱われていたことは問題ですし、未だにそういう意見があれば私も反論します。が、そこから単に善悪逆転した二元論に持ち込むのは違うだろう、双方の立場考えたフラットな評価であるべきだろう、と思ってます
2015-01-16 01:11:00@dokudamiY ただ義継が三人衆を離脱して久秀の所に逃げ込んだというのは、やはり傾向としてそういうところがあったように感じますね
2015-01-16 01:15:32義輝に関しては、一度目の三好との対立は近しい晴元や六角に与した故になし崩し的に京を追われただけでしかないし、主導は義晴。問題は二度目の反目で、これは義輝側の違約によるもので、幕府の威信を大きく落としてしまったことは当時の資料にも書かれる通り酷評されても仕方のないことと思ってる
2015-01-16 01:16:03@yougoha そうですね、二元論は問題だと思います。そこは当時の三好政権との関係性をよくよく調べた上で、相対化されるべきですね。個人的には義輝は畿内政権の主導権を握るという大きなリスクを伴う行動をして、結果失敗したのだと考えています。
2015-01-16 01:18:13で、ここまではいいとこなしの義輝だけど、永禄改元後に三好と和睦してからは、暗殺されるまでは少なくとも表面上は三好と協調する姿勢をとっている。大体義輝の政治的評価への焦点となってるのはここだと思う
2015-01-16 01:19:28もちろん仲良しこよしと言う訳ではなく、水面下ては権力範囲を巡って駆け引きはあったのだろう、ただお互いに武力を持ってどうこうしようという姿勢が見えなくなったのは、それまでの義輝の「短慮」とも言える行動から大きな方針転換が見られると思う
2015-01-16 01:21:13で、この時期の義輝と三好をどう評価すべきか……ってのが、まず今谷先生がこれを「三好の敗北」と評価して、今まで定着してきた感じ。それに対して天野先生が反論として三好が京から権限を撤退させてないことを示してる、って流れ
2015-01-16 01:24:04@yougoha そういえば永禄の変については、不穏な雰囲気に、義輝は一旦御所から離れたのに、近習たちが進めてまた御所に戻らせたために、変が起こった、なんて話もありますね。どうもあの事件も色々な勢力の思惑がえらく重なっている感じがw;
2015-01-16 01:24:25@1059kanri 事件前日に上京した三好勢に対して山科言継ら公家衆が赴いていますが、その辺りの記述の雰囲気からも義輝に限らず殺し殺されになるなんて空気が感じられないんですよね……
2015-01-16 01:28:20@1059kanri @yougoha 確かに義輝は小説の影響はあると思いますが、一般的に「永録の変」で足利義輝を討った三好が長慶時代も纏めて批判対象に「されがち」な上に信長や松永が絡んで余計に長慶時代が分かりにくいのが原因かと。
2015-01-16 01:28:27ちなみにフロイスの義輝評価『すなわち彼は平和の愛好者で、18年この方大いなる賢慮を以って天下を統治してきたし、司祭に対しては都に居住する充許を授けた。そのためわれらイエズス会は公方様がたとえ異教徒であっても、かくも良き君侯の保護下で成果が上がることを期待しつつ過ごしていた』
2015-01-16 01:29:27私はどっちも正しいんじゃないかと思いますね。義輝を追放していた時期の三好政権を高く評価するのなら、結局義輝と和睦した、せざるを得なかったのは「後退」と取られても仕方ないし、かといって無条件に権限を義輝に返したわけでもないのは事実
2015-01-16 01:30:11かつて同じように起こったクーデターである明応の政変も、これも背景の把握は一筋縄ではいかないものがあるけど、これに関しては事前から義稙と政元の反目があからさまだったのと、直接の切っ掛けは義稙の軍事行動
2015-01-16 01:32:26@1059kanri 教興寺を切っ掛けに幕府内が一枚岩でないことが明るみに出てますしね。義輝の問題点を挙げるならば、三好絶対殺すマンとして返り討ちにあったという解釈じゃなくて、そういった割れた幕府を統制できなかった点なのではないかと思います
2015-01-16 01:35:44