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ジロウ @jiro6663
昨日は日本で"怪異"を経験した人たちのドキュメンタリーを作るためにフランスから帰国した友人の撮影。うちの母に息子である僕がインタビューしている様子の撮影。
ジロウ @jiro6663
ドキュメンタリーとはいえ、途中で僕がディレクターである友人の指示を逸脱した話題に食いついて話が脱線してしまっていたのではないかと、寝て起きて今、気づいた。
ジロウ @jiro6663
昭和20年代初頭生まれの母。最寄りのバス停まで歩いて1時間だったという故郷の村の話を聞いていたのだけど、僕が食いついてしまったのは、村の人々が「墓山(はかやま)」と呼んだ山の、くずれかけた小屋に住んでいた「墓守(はかもり)」の話。彼は「とらやん」と呼ばれていたという。
ジロウ @jiro6663
とらやんは、村の外れにある墓山の墓場の墓守として墓場の管理や焼き場で遺体を火葬するのの世話をしたりするためにそこに住んでいた。村の人は日々の墓参りは近所の檀那寺にある墓に参るので、「墓山」の墓場に行くのは人が亡くなって火葬・埋葬する日とお彼岸、お盆など、年に数回しかない。
ジロウ @jiro6663
とらやんは最初、夫婦で墓山の電気も水道もない粗末な小屋に住んでいた。村の大人たちは幼い母に、彼らが「かけおち者」であることを耳打ちした。
ジロウ @jiro6663
とらやんは長く村で暮らしているとはいえ、あくまで墓山に住む者であり、「同じ村の人間」ではなかった。たとえば村の寄り合いや宴席などに呼ばれることはなかった。ただ、たまに墓山の竹で箒などを作り、それを売りに来た。人々は戸口でそれと引き換えにいくらかのお金と食べものをとらやんに渡した。
ジロウ @jiro6663
「ふだんは村の人々が墓にお供えした物を食べていたのではないか」と母は言っていた。
ジロウ @jiro6663
同じ村に住むとはいえ墓山からほとんど出てこないとらやんを見るのは年に何度かくらい。墓山の墓場は寺の墓場と違い、周囲を欝蒼とした林に囲まれ、彫られた名前も読めない倒れかけた古い墓石が並ぶ、不気味な場所であったという。子供たちは墓山を怖がり、そしてとらやんも不気味がった。
ジロウ @jiro6663
お盆などで先祖を墓山の墓場まで送りに来ると、帰るのは日暮れになってしまう。あたりが暗くなると、崩れかけた墓のそこここから、小さな青い燐火がゆらゆら揺らめき始める。大人たちは平気なようだったが、子供である母はもう怖くて怖くて仕方なかったから、急いで墓山を駆け下りたという。
ジロウ @jiro6663
「夫婦の浮浪者みたいな風体だった」というが、とらやんはいつも穏やかで子供たちも何か彼に脅かされたりするようなことはなかった。大人は一線を引きつつも、困っている様子の時は食べものやお金を渡すなどしていたが、やはり子供たちはみんな「墓山のとらやん」が怖かったという。
ジロウ @jiro6663
ただ、とらやんのお嫁さんはいつしか亡くなってしまい、とらやんは墓山の小屋に1人ぼっちになった。1人になったとらやんは4、5頭の犬を飼い始めた。この犬たちはよく吠える犬で、子供たちはより一層とらやんを怖がるようになった。
ジロウ @jiro6663
子供だった母が大きくなり、高校へ行き、町の銀行へ勤めるようになり、そして縁談が持ち上がる頃。あの墓山を潰して団地を造成することになった。昭和40年ごろ。すっかり年老いたとらやんはまだ墓山の小屋にひとりで犬たちと住んでいたが、墓山が潰されると村から姿を消した。
ジロウ @jiro6663
とらやんがどこに行ったのか、母は知らないと言っていた。
ジロウ @jiro6663
この話がとても気になったのです。
ジロウ @jiro6663
高度経済成長の入り口くらいまでは、いろんなところにとらやんがいたんだろうなと、妙に感心してしまった。思わず撮影を忘れてインタビュー脱線。申し訳ないことをしたと今気づいた次第。
dada @yuuraku
西原の「パーマネント野ばら」にも山に住み着いた夫婦者出てきたね。
dada @yuuraku
昭和40年代頃は掘っ立て小屋みたいなのに住んでるちょっとアレな爺さんみたいのがまだそこかしこにいた。

コメント

cinefuk 🌀 @cinefuk 2015年2月12日
都市の成長により、ムラで居場所をなくした人達が仕事を見付けコミュニティを作って暮らせるようになった。最近目立つ「昔は良かった、古きよき共同体に戻ろう」という発言は、排除された人への目線がない。
hiroharu.minami @hiroharu_minami 2015年2月13日
「日本残酷物語」 http://goo.gl/ubkoHt を思い出させる様な話だなあ。
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