宮本大人「速度と重力、名前と音声」(イメージ文化史WS「マンガ、あるいは「見る」ことの近代」第3回)感想・コメント集
宮本大人さんの「マンガ、あるいは「見る」ことの近代」、最後のほうの伊藤剛さんの球ちゃん(文字にするとこちらなのだそうです)だが、コマを区切ってあると、大きな球ちゃんと小さな球ちゃんが相対して見えるのに、コマ枠を消すと、同じ球ちゃんが乱舞してるページにみえたのがとても面白かった
2015-03-07 01:40:22近代の「時代劇」の最重要ルーツのひとつたる『大菩薩峠』からして、冒頭ではサルの群がキャッキャと鳴き、机竜之助が大菩薩峠の頂に立つと青嵐がゴーッと崩れ、斬られた老巡礼の血煙がパッと散り、やっぱり独特の「音の世界」を描き出すところから始まっていたかもしれない
2015-03-07 01:48:04『大菩薩峠』の机竜之助は途中で盲目になるわけで、「音の世界」が重要であることは間違いなさそ。血の池に「でんぶ」「でんぶ」という音を立てながら裸の臀部が次々に浮かんでくるという悪夢は何巻あたりだったかな
2015-03-07 01:54:20「球ちゃん」って名付けがあるとキャラになっちゃうんじゃないのかな?と思っていたら、伊藤さんが「球ちゃんは固有名じゃないからね」といい宮本さんからの「ああ、類の名前、もやしもんの菌みたいなもの」って補足がすぐあって「なるほど」と思った>「マンガ、あるいは「見る」ことの近代」第3回
2015-03-07 01:58:49「人格、のようなもの」について。どこからがキャラなのか、キャラはコマワリががあるから成り立つのか、「のらくろ」のパチもん「のらくら」「どらくろ」「どらくさ」などの存在をどう考えるか。私の長年の「団珍くん」問題とも重なり、興味は尽きない>「マンガ、あるいは「見る」ことの近代」第3回
2015-03-07 02:10:03早大「イメージ文化史」宮本大人「速度と重力、名前と音声」:夏目房之介の「で?」:ITmedia オルタナティブ・ブログ blogs.itmedia.co.jp/natsume/2015/0…
2015-03-07 06:32:06固有名についてあまりきちんとは考えていなかったけど、正チャンの冒険では正チャンで固有名になるし、スピード太郎の場合は、太郎では固有名にはならないが、スピード太郎と言うと固有名と認識される。確定記述による名指しは固有名の条件だが、キャラクターの名称のレベルでもそれは含まれる。
2015-03-07 09:26:30正チャンを固有名たらしめているのはカタカナの「チャン」ではなかろう。正チャンの冒険という作品と結びつくことで、正ちゃんはキャラクターの固有名として認識される。しかし正チャンの冒険を読んでいない人でも、正チャンのキャラクターはその図像で識別はできる。図像が確定記述となっている。
2015-03-07 09:32:08正チャンの表記は「正チャンの冒険」を知っている人には、正チャン帽をかぶった正ちゃんと「正チャンの冒険」を結びつける機能を果たしてはいる。もちろん「正チャンの冒険」を知らない人にとっては、それは機能しない。固有名が認識されるときのその射程は確定記述の多寡に拠っているのではないか。
2015-03-07 09:43:44昨日は宮本大人先生の講義に参加。仕事柄戦前の漫画を見る機会は多いけど、頭の中で体系的になってない部分があって、それが少し整理された感じ。ついでに次の展示のレイアウトがだいたいできた。「スピード太郎」展は4月4日から!
2015-03-07 09:45:10「立ったキャラクター」を作らない、画面の繋ぎに際して明快さ「自然」さスムーズさを最優先せず飛躍とイマジネーションを重視、商業的娯楽性よりアジテーション。そんなエイゼンシュテイン的モンタージュは、連続物語漫画と隔たりが大きそうなのに、論においては参照されるのは、「権威」だからかな
2015-03-07 09:50:07昨日夏目さんが話していたが、円の上に点を二つ並べたものを、そのすぐそばに「ボタン」とか「豚の鼻」などと書くとそれはもちろんキャラクターには見えないが、そばにフキダシをつけるとキャラクターと認識される。正確にはキャラ以前の、人の顔のようなものならば、加えて固有名が必要なのだろう。
2015-03-07 10:00:34モンタージュ全盛期のソ連映画は同時代の日本じゃ見られなかったわけで、マンガ的様式を考えるにあたって、まず「モンタージュ」の話というのはどうなのか、と、疑問がちだったのもあり、赤本漫画というローカルジャンルの成り立ちを突き詰める昨日の宮本大人さんのお話に、やはりここからと思った次第
2015-03-07 10:13:24極端なことを考えれば、フキダシをつけてしゃべっているその「もの」に「ボタン」と名づけても、その時には「ボタン」がキャラクターになることは可能だ。
2015-03-07 10:15:48宮本大人さんの発表には、松本かつぢや田河水泡の昭和戦前戦中作品の再発見・再検証も含まれるけれど、「突出した才能に恵まれた作家が個人で様式を《発明》し、その他大勢のフォロワーが従った」史観ではなく、むしろ「ローカルなジャンル」が集団的に形成される過程の特異点的に捉えられる印象
2015-03-07 10:30:20あと、赤本漫画の「音声が文字として画面に現れる」スタイルは、「サイレント映画的」でもあるんじゃないか。手紙のクロースアップ、ムルナウ『ファウスト』の燃え上がる「LIEBE」の文字、伊藤大輔の画面に「キネマ文字」として出現する叫び声、サイレント映画は音声をテキスト化し映像化する
2015-03-07 10:35:40映画でもマンガでも、エキストラとしての登場人物が画面上に存在することがある。かれらは識別する必要がない。もし固有名を必要条件とすると、エキストラはキャラクターではないことになる。しかし一コママンガなどで、名づけが特にない場合でも、登場人物をキャラクターと呼ぶべきではないだろうか?
2015-03-07 10:36:34ムルナウのサイレント映画ってなんだかマンガっぽい・・・、と思っていて、ことに『タルチュフ』には「水木しげる! 水木しげる! 水木しげる!」と指さして叫びたい感じがあったんだけど、その印象が何ゆえなのか、暇ができたらちょっと詳細に考えてみようかな
2015-03-07 10:39:00昨日の宮本大人さんの講義で数多くの戦前の赤本・豆本漫画を見て、いかに私たちが「マンガとは”ストーリー”を語るもの」という固定観念にとらわれているかを思い知った。紹介された漫画たちには、次から次へとヘンテコなことが起こり続け、ただただその出来事を眺めることのたのしさに彩られていた。
2015-03-07 10:39:18それは「マンガはストーリーを語るもの」であり、主人公の心情や行動の変化で全体が整合的に構造化されることをもって「ストーリー」とする見方(いまの主流であり、学校ではその技術を教えている)からみれば、劣った、幼稚なものに見えるかもしれない。
2015-03-07 10:41:08だが、ヘンテコなことが次々起きるたのしさ、という豊かさもまた、間違いなくあったのだと思った。戦前のマンガの達成は、ほとんど知られていないし、わたしにしても断片的にしか知らなかった。これはもっと知られていい。
2015-03-07 10:41:53単発の一コママンガなどで登場人物に名づけがされていなくても、その画面に示されている場面が登場人物についての確定記述であると考えるならば、その時名前がなくても登場人物の図像そのものが、固有名を示す文字列と同等なものとして担われていると考えられるのではないだろうか。
2015-03-07 10:50:39