コスメの語源から、レヴィナスの存在論批判=他者の哲学へ
- totojuni_s
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女の子が盛りまくる話といえば、『下妻物語』。ロリータとヤンキーほど鬼盛るコ達はいない。盛ってアガる、盛らねば下がる。盛れるうちが花なので、バブルを謳歌したいものだ。 #shibuhouse
2010-12-16 00:51:59ロリータ/ヤンキー/age嬢と森ガールは決定的に何か違うだろ。。と考えていた。前者の「鬼盛り」は被服が皮膚の延長としてアイデンティティの象徴となっているのに対し、後者は確かにデコり、盛ってはいるが単に「可愛い」と言われるための手段そして流行に過ぎない。
2010-12-16 23:28:17彼女達にとっての被服は生きるための武装であり、世界への反逆である。誰かに「可愛い」と言われるための服装ではない。「盛り過ぎイタい」と言われた場合、決して屈せず、絶対に迎合しない己の意思表示として、「イタくて上等、極限まで鬼盛ってやる」とそのレジスタンス精神は燃え上がる。
2010-12-16 23:29:28森ガールはそうではない。森ガールは流行に乗り現状を受け容れる。アーバンでナチュラル、ママの言うことを聞けるごく普通の幼い少女達だ。「イタい」などという揶揄には弱い。「盛り過ぎ」ならば少し抑制もできる社交性があるだろう。次の流行がくれば森ガールであることをあっさり捨てられるだろう。
2010-12-16 23:30:05化粧(cosmetics)の語源は、ギリシア語の"κοσμετικοσ (kosmetikos)"で、その意味は、「コスモス(宇宙―自然秩序)との調和」。肉体と精神が宇宙=自然と精妙なバランスを保ったとき、人は美しさを獲得できるという意味。なんて素晴らしい言葉なんだろう。
2010-12-18 02:12:04cosmetics(化粧)←kosmetikos(コスモスとの調和)、という概念の魅力に魅了されている。この調和は静的調和と理解せず、動的に理解したい。身体の肌理(きめ)に眼を配ることが、同時に、世界と触れている存在としての私への手当てであること。身体を介して世界と会話すること。
2010-12-18 02:40:01@totojuni_sanche うん、みるみる!けど書く気分じゃなかったら無理しないで?書かないことが良い作用になることもあるもんね。
2010-12-18 02:59:05今考えてるのは、何故「化粧」-kosmetikosに於いては「何かを塗ったくる」ことが流儀になってるのかということ。世界との交接には、恐らく媒質が必要だ。基礎化粧品によって形作られる皮膜は、身体の霊性を世界へと伝える通路であるとともに、世界の霊性を刻み込むための通路ということか。
2010-12-18 03:00:07おそらく「盛り」にも通じることなんだろうなあと思って続きを見守る RT @totojuni_sanche 今考えてるのは、何故「化粧」-kosmetikosに於いては「何かを塗ったくる」ことが流儀になってるのかということ。世界との交接には、恐らく媒質が必要だ。基礎化粧品によって形
2010-12-18 03:24:29@mermo72 最後の「まいーや」をたんと味わうために、哲学者はモノを考えるんだーみたいなこと、ジュさんが言ってたーってついーとしてたのめるもちゃんだっけ?w
2010-12-18 03:27:12皮膚→化粧→被服→盛り→鬼盛り/世界との交流はいかに。ベースメイクの部分は最初の、とても繊細に語られる段階なのだろう。無垢なものが初めに世界と触れ、交流の始まる場所。
2010-12-18 03:31:47化粧すると顔かわる。化粧することで、その下にある顔自体がかわる。すっぴんの状態と、化粧した時のその下にある顔はちがうと感じる。
2010-12-18 03:40:47@ishtarist どうしてその名前がポンと思いつかなかったんだろうw 何となく『団塊の世代』が書いたものを忌避しているところがあるのかな………化粧に特化した論考がないか探してみます。
2010-12-18 15:12:00衣服を着ること、化粧をすること、装飾具を身につけること、刺青をすること。これらを広義の衣服だとすると、人類はすべからく衣服を着ていることになる。あるいは、衣服を着ている動物こそが、人類であり、衣服を身につけることによって人間になるということさえ言える。
2010-12-18 15:28:30道具を使うこと、言語を使用すること、それらもまた人間の特質であると言えるかもしれない。しかし、簡単な道具なら類人猿も使ったり作ったりするし、またイルカや蜂も言語をもっていると言える。しかし、衣服を自ら着る動物は、おそらく人間以外にはいない。
2010-12-18 15:31:00なぜ、人間は、なぜ衣服を着るとはいかなることなのか、理解することができないのか。端的に言えば、それは人間が衣服を着ているからだ。衣服を着ることですでに変換された世界の中に埋没していると、衣服を着るとはどういう営みなのか、識ることができない。
2010-12-18 15:34:11僕はその衣服という問題について、修士論文の第二部で書いたことがある。なにぶん80万字近い大部の論文の一部分にすぎないので、ずいぶん荒っぽい議論になったが、そのときに書いたことはこういうことだ。
2010-12-18 15:38:57そもそも、自分の身体というのは本来、その人間にとってほぼ不可視のものである。人間の視線にその全体像を与えられるのは、まず他人の身体である。たとえば、身体像にとってもっとも重要な部分は顔であるが、自分の顔を見ることはできない。言い換えれば、私の顔は他者の世界にしか存在しない。
2010-12-18 15:42:21