沖縄戦(増補版)
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【沖縄戦】4月24日@喜屋武 後に「おもろそうし」研究の第一人者となる外間守善氏は、第24師団に入隊していた。この日、前線への出動命令が下る。「今度ははっきりと自分の死を意識した(略)誰も彼も口を結んだままで、鉄兜の下の眼だけがギラギラと光っている」。60㌔の軍装が肩に食い込む。
2014-04-24 12:17:24【沖縄戦】外間守善さんは、妹さんを疎開船・対馬丸で亡くした。後には、沖縄について天皇への進講役もつとめた。天皇が那覇の対馬丸記念館へ行き、琉歌もよむ背景には、亡くなられた外間さんの存在が間違いなくある。 pic.twitter.com/SUnbN2oXtK
2015-04-24 10:54:14【沖縄戦】4月25日@東村 山中に逃げていた山里将林さん(当時20)らのうち、伯父たちが米軍に捕まってしまった。が、消沈する一行の前にひょっこり当人らが戻る。「おまけに牛肉とポテトの缶詰(略)を土産に持って来たのには二度びっくり」。身ぶり手ぶりで再現する米兵との会話に座が沸いた。
2014-04-25 15:09:29【沖縄戦】昼食をもらう米兵。5月3日に撮影された写真の説明には「メニューはポーク・ランチョンミート、グリーンピース、肉と野菜のシチュー、ホット・ビスケット、コーヒー、そしてパイナップルの缶詰であった」と。沖縄県公文書館所蔵。 pic.twitter.com/WpyaRgs4YR
2015-04-25 14:11:13【沖縄戦】4月26日@南風原 ひめゆり学徒隊に最初の犠牲者が出た。佐久川米子さん。「四、五名の学友がとりまいて泣きじゃくっていた(略)姉の和子さんは、カバンから最期のために用意してあった師範の制服をとりだして着せた」。丘に掘った穴に丁重に葬ることが、まだこのころは出来た。
2014-04-26 17:27:40【沖縄戦】昭和19年の「ひめゆり」の制服。もともとはセーラー服だったが、戦局の悪化とともに昭和18年からは「国民服」が制服に。昭和19年からは特別の日以外はスカートもはかなくなった。ひめゆり平和祈念資料館所蔵。 pic.twitter.com/qnjabevZE6
2015-04-26 19:29:50【沖縄戦】4月27日@真和志 首里・那覇から非戦闘員を立ち退かせるように求められていた島田叡知事は、引っ越しまもない壕内で、県下の市町村長と警察署長を集めた会議を開く。避難民の受け入れに万全を期すること、そして食糧増産のために月明かりを利用してイモを植えようということになった。
2014-04-27 14:51:44【沖縄戦】島田叡知事。「当時、少年警察官だった上原徹さん(85)は那覇市の濠で一緒だった。上原さんが先に壕を去る時、紙に包んだ黒砂糖を渡され『体を大事にしなさい』と言われたことを覚えている」asahi.com/articles/ASG6C… pic.twitter.com/6V9sXv3dZ5
2015-04-27 12:10:07【沖縄戦】4月28日@首里 県立一中の鉄血勤皇隊では、食糧不足を理由に除隊希望者が募られた。与那城朝章さんは一瞬ためらう。「家族のところに帰りたいのは山々だが(略)友人たちを残して除隊するのは申し訳ないような気がして」。手を挙げた者は少なかった。選ばれた19人が壕を後にした。
2014-04-28 11:51:44【沖縄戦】1959年に琉球政府がまとめた「沖縄戦における学徒従軍記」では、男女あわせて2127人の学徒が動員され、1105人が死亡したとなっている。 pic.twitter.com/KlduTQ0aow
2015-04-28 12:36:18【沖縄戦】4月29日@首里 天長節に司令部で論争がおきた。長勇参謀長「現状をもって推移すれば、軍の戦力はローソクのごとく消磨し、軍の命運の尽きることは明白である」。八原博道高級参謀「攻勢をとれば失敗必定であり(略)本土決戦のための持久日数も短少となる」。裁可は下った。反転攻勢。
2014-04-29 19:39:13【沖縄戦】4月30日@浦添 小隊8人で戦車5両と対峙した山本義中氏は全身を負傷。左腕を自ら切断し、気を失う。この日、地元の防衛隊2人と女子挺身隊員の手で、南風原の陸軍病院壕へ向かう。「女学生も中学生も戦場で働いている(略)軍はこの人達防衛隊にどうやって報いるつもりだろうか」
2014-04-30 12:55:55【沖縄戦】水陸両用戦車の側面に第6海兵師団の影が落ちる。数日前、日本軍の77ミリ砲弾を受けて、車体に穴があいた。沖縄県公文書館所蔵。 pic.twitter.com/TEiYs2jJ2J
2015-04-30 15:53:12【沖縄戦】5月1日@浦添 本島北部を制圧した米海兵隊は、首里戦線へ投入されることに。第1海兵師団のユージン・スレッジ氏は南下の際、前線にいた米陸軍とすれ違った。「泥にまみれ、薄気味悪く目は窪み、顔がこわばっている(略)背の高いのが、疲れた声で言った。『あっちは地獄だぞ、海兵隊』」
2014-05-01 11:39:45【沖縄戦】ユージン・スレッジ氏(最前列右で帽子を浅くかぶっている人物)。1945年、沖縄で。diglib.auburn.edu/collections/eb… そして本人のインタビュー映像など。youtube.com/watch?v=0GHjgK… pic.twitter.com/NmZfyL1cct
2015-05-01 11:39:16【沖縄戦】5月2日@浦添 外間守善氏は、日米で血みどろの争奪が繰り返される前田高地の第二大隊本部壕にいた。「我がほうは、あらゆる弾を撃ちつくし、残るはわずかな手榴弾と拳大の石塊、白兵戦によるのみであった(略)手足や胴や腹がバラバラになった戦友の死体が積み重なり、凄絶な状態だった」
2014-05-02 17:08:59【沖縄戦】2013年夏、浦添市前田の道路工事現場でみつかった銃弾。迫撃砲弾の破片、米軍の銃弾、旧日本軍の弾などが入り乱れ、激しい闘いだったことを思わせた。 pic.twitter.com/sixGZb3Ckt
2015-05-02 12:35:33【沖縄戦】5月3日@首里 翌日の反転攻勢を前に、日本軍の司令部壕では「戦勝前祝会」が開かれた。「各将軍はアルコールの回るにつれ、朗らかになり(略)談笑尽きない。盛装の娘たちが、華かに洒間を斡旋する」。すでに逆上陸部隊は本島両岸を北上中。八原博道高級参謀は、この夜、眠れなかった。
2014-05-03 13:23:22【沖縄戦】沖縄守備軍・第32軍の首脳たち。1=大田実、2=牛島満、3=長勇、6=八原博道。那覇市歴史博物館。 pic.twitter.com/7BtqapbxfV
2015-05-03 16:05:24【沖縄戦】5月4日@首里 反転攻勢。第五砲兵司令部で作業をしていた鉄血勤皇隊のもとに参謀が来た。「いいか、もう五分もすると、わが軍はいっせいに砲門をひらくから、みんなよくみておけ」。午前4時50分、200門を超える砲が一斉に咆哮する。が、倍する反撃で、昼には早くも憂色に包まれた。
2014-05-04 14:15:55【沖縄戦】反転攻勢に決するまでの司令部内での論争。 「ひとり高級参謀は、従来の作戦方針を堅持し、極力攻勢案に反対す。『攻勢により戦勝を夢見るがごときは、いわゆる痴人の夢』」 アジア歴史資料センター「第32軍 軍直部隊史実資料(1)」 pic.twitter.com/DFJXov0JOk
2015-05-04 14:28:19【沖縄戦】5月5日@首里 2日間で約5千人の将兵が死傷。砲弾はほぼ撃ち尽くされた。攻勢中止。牛島満司令官は八原高級参謀を呼び、三度目の持久方針への決心を語る。「残存する兵力と足腰の立つ島民とをもって、最後の一人まで、そして沖縄の島の南の涯、尺寸の土地の存する限り、戦いを続ける」
2014-05-05 15:51:49【沖縄戦】八原博道氏の「沖縄決戦」は長く絶版状態でしたが、5月23日に、ついに中央公論から文庫化されるようです。単行本の初版の発行日は、なんと1972年8月15日。 pic.twitter.com/1YFCWPavJk
2015-05-05 12:26:54【沖縄戦】5月6日@南風原 重傷の級友を満員の病院壕へ運んだ宮城真一氏らは、そこで夜を明かした。上下二段の寝台。ほとんど物の見わけもつかぬ暗闇の中、患者同士が会話をしていた。「翌朝、下段の患者は死んでいた。寝台をあけるため、看護婦が死体の脇に手をいれて、壕外にひきずっていった」
2014-05-06 14:51:06