「ナポレオン3世」と「フランス第二帝政」に関する再評価について。

「フランス皇帝の意向を伺わなければ、ヨーロッパでは誰も行動を起こそうとしない。」by大英帝国宰相パーマストン子爵。 1860年の「ナポレオン3世」・「フランス第二帝政」の全盛期を評して述べた言葉。
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久経 @hisatune3

一方のプロイセン王国はバイエルンなどドイツ領内を「反仏感情」で対仏戦一色に染め上げます。さらには大政治家である鉄血宰相の政治的才能と外交攻勢によりナポレオン3世とフランスは国際的にも完全に孤立してしまいます。

2015-09-25 14:32:42
久経 @hisatune3

さらには「軍事的才能」・「名将」としては「大モルトケ」、次に「プロイセン参謀本部」の設置と対仏戦の入念なる戦争計画の策定とシュミレーションと軍事演習。その次に「通信インフラと鉄道網の軍事利用」などもきちんと「普仏戦争」(仏独戦争)に向けてきちんと戦争計画を制定します。

2015-09-25 14:36:27
久経 @hisatune3

さらには立憲君主制の君主の皇帝にはヴィルヘルム1世。もうここまで来るとナポレオン3世とフランス第二帝政が哀れに見えて来ます。

2015-09-25 14:37:29
久経 @hisatune3

マトモにロクに歩く事も、乗馬もほとんど行う事すらも不可能なナポレオン3世は「セダンの戦い」にてプロイセン軍の猛攻を受け、遂には「降伏」します。ここに「フランス第二帝政の崩壊」は決定的となりました。

2015-09-25 14:39:01
久経 @hisatune3

フランス帝国皇后ウジェニーは執拗なまでに「フランス軍の前に立って突撃し、プロイセン軍の前にフランス軍を率いて玉砕」する事を執拗なまでナポレオン3世に電報にて再三、強要しますが、下記の通り合計3種類もの病魔でもう末期的であり、致命傷であったナポレオン3世は歩行すら困難でした・・・。

2015-09-25 14:41:33
久経 @hisatune3

まあ仮に皇后ウジェニーの意見具申通りに「ナポレオン3世麾下のフランス軍と共に玉砕」したとしても、「ナポレオン4世の即位とフランス第二帝政の維持」は絶望的なまでに困難な末期的状況ですし、仮にそれを実行したとしても、「パリ陥落」と「フランス第二帝政崩壊」は免れなかったでしょう。

2015-09-25 14:44:03
久経 @hisatune3

まあただ、圧倒的な「質と物量」を誇るプロイセン軍に対して、日本史の戦国時代の「大坂夏の陣」みたいにプロイセン軍に対してナポレオン3世と麾下のフランス陸軍全軍が「玉砕前提」で突貫すれば、まあ確かに「悲劇的な最期で武運拙く戦場で散った皇帝」としてその名を残したでしょう。

2015-09-25 14:46:13
久経 @hisatune3

かつてのヨーロッパのスウェーデン王国・バルト帝国のグスタフ2世アドルフや、「大北方戦争」などにおけるカール12世の最期の様に。

2015-09-25 14:47:51
久経 @hisatune3

プロイセン軍の捕虜の身となったナポレオン3世はビスマルクとヴィルヘルム1世と再び会う事となります。ただし「勝者」と「敗者」としての再度の謁見ではありますが・・・・・。

2015-09-25 14:49:28
久経 @hisatune3

ビスマルクや大モルトケは「これ以降の対仏戦」について協議するものの、「ナポレオン戦争時における反仏感情」や、「反仏世論」、さらには周囲の「反仏感情」に押し切られ、フランスの首都パリ攻略とヴェルサイユ宮殿内部において、「ドイツ帝国皇帝の戴冠式」を強行します。

2015-09-25 14:53:18
久経 @hisatune3

『ドイツ帝国の成立』(アントン・フォン・ヴェルナー画) pic.twitter.com/wVVpoHtvVR

2015-09-25 14:54:01
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久経 @hisatune3

「ナポレオン3世捕虜」の敗報はフランス全土に激震が走りました。フランス全土で大規模な暴動が発生し、臨時の革命政権なども樹立されます。

2015-09-25 14:50:34
久経 @hisatune3

「賠償金が支払われるまで占領されたフランスの領域」 pic.twitter.com/6PHvrwCzze

2015-09-25 14:55:29
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久経 @hisatune3

この普仏戦争後に行われたドイツによるフランスへの一連の懲罰的な「フランスの政府中枢であるヴェルサイユ宮殿でのドイツ帝国皇帝の即位」や「フランス領土の割譲」や「フランスへの賠償金の請求」などは「第一次世界大戦の原因の1つ」にもなってしまいます・・・・・。

2015-09-25 14:58:20
久経 @hisatune3

一方のナポレオン3世と皇后ウジェニーらは這々の体で、プロイセン軍の捕虜の身柄から、次は身柄を大英帝国の首都ロンドンへと移送され、イギリスでの政治的亡命を余儀なくされます。

2015-09-25 15:00:16
久経 @hisatune3

普仏戦争の数年後、何種類もの病気の為とさらには「普仏戦争における完全敗北の精神的なショック」も影響としてはあったのでしょう。ナポレオン3世は失意のどん底の中、遂には「崩御」してしまいます。

2015-09-25 15:04:27
久経 @hisatune3

死亡し死去した「ナポレオン3世」に対して次の「ナポレオン王家」の正統なる皇位継承者として「ナポレオン4世」が皇位継承権を継承し、ナポレオン王家のさらなる再興とボナパルト王朝の再建、「帝政復古」へ邁進しようとします、が・・・・・しかし・・・・・。

2015-09-25 15:06:31
久経 @hisatune3

ナポレオン4世は当時の大英帝国女王であったヴィクトリア女王や英国王室との仲も極めて終始、友好的なムードであり、ナポレオン4世はイギリス軍の士官学校でもそれなりに優秀な成績を収め、さらには「ナポレオン王家」と「英国王室」との縁談の話もかなり真剣に話し合われた様です。

2015-09-25 15:13:16
久経 @hisatune3

ですが、「英国への恩返し」を強く切望した流浪のナポレオン王家の正統なる皇位継承者はイギリス軍への志願と戦場への実戦配備を強く英国政府に切望します。英国側も周囲の「帝政復古」を望むボナパルティスト達の反対を押し切り、ついには軍務に就いて戦地へと行ってしまいます。

2015-09-25 15:15:47
久経 @hisatune3

場所はアフリカ大陸。それもシャカ・ズールーの建国した「ズールー王国」との戦争、すなわち「ズールー戦争」での従軍と悲惨な戦地での「戦死」と、いう哀れな最期でした・・・・・。

2015-09-25 15:17:17
久経 @hisatune3

世界史フラッシュではここの動画が面白いと思われます。参考までにどうぞ。 ズールー戦争 - ニコニコ動画:GINZA nicovideo.jp/watch/sm4386826

2015-09-25 15:18:28
久経 @hisatune3

「ナポレオン3世の遺児ルイの最期を描いた絵画。」 pic.twitter.com/9qigmaivJ9

2015-09-25 15:19:11
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久経 @hisatune3

こうして「ナポレオン王家」の正統なる次の皇位継承者すら「戦死」してしまいました。さらにナポレオン3世の歴史的評価はフランス本国でも極めて低く、今現在でも不当な低い歴史的評価と、叔父のナポレオン1世とは真逆で、未だに遺体の祖国フランスへの「帰国」すら成されていないのが現状です。

2015-09-25 15:21:55
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