アリノリさんら歴史通が語る、家康おもしろ話~いくつかのテーマを抜粋し
- gryphonjapan
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徳川家康の酔っぱらい方 ・「秀忠、一緒に飲もう!」 ・「誰か、酒の飲める奴!一緒に飲もう!」 史料上確認できるのがこの2例だけ。絡み酒っぽくないこともないが、「一緒に飲もう!」タイプなのは分かる。ちなみに上では秀忠以外に貴族が2名共におり、下は酔いながらも馬に乗っている。
2015-11-21 08:33:44武将や大名の酔っぱらいネタは、「ひどい」レベルの話をよく目にするから、家康の酔っぱらい方が「その程度か…、カワイイもんだ」にしか見えない。 秀吉や信長も泥酔ネタを見掛けないから、酔って理性を失うタイプには天下は取れないってことか。
2015-11-21 08:53:42しかし、これだけ史料(「言経卿記/言緒卿記/慶長日件録/徳川家康文書の研究/駿府記」ほか)を探っても「酒を飲んだときの酔い方」が2つしか見つからないってのがな。史料な豊富な人物であっても、その個性を掴むのって手間がかかる。
2015-11-21 09:05:14家康と 鷹狩り
後藤庄三郎光次は『駿府記』の著者ではないか?とされる人物じゃないか。個人的にタイムリーだが、『駿府記』は大坂の陣について詳しく書き残している本でもあるんだ…。あと、これを読むと家康の鷹狩り好きが嫌ってほど分かる。
2015-11-13 20:46:03『駿府記』は引退した家康only本なので、やたらと狩りの記事が多い。江戸に行く道中で狩り、行ったついでに関東で狩り、帰る道中で狩り、大坂の冬の陣で上洛する途上でも狩り、帰りも狩りで時間を潰す。流石に夏の陣の往復ではないが、最後の方でもう一狩りあったりする。
2015-11-14 18:32:05@gorowta 色々言われてますが、大御所になって「時間がある」「献上品の鷹比率高し」も理由かもしれません。貰ったら試して次に会ったときに感想を言う必要もありますので。また、秀吉時代、在京中は鷹狩りができなかったようです。 が、詰まる所、好きだったのが大きいかと思われます。
2015-11-14 18:48:33家康は秀吉時代の在京中は囲碁ばかりで、鷹狩り記述があるのは、秀吉没後。駿府時代は囲碁が減って鷹狩り比率が凄く上がる。秀吉時代は京周辺の狩り場が豊臣のもので、鷹狩りができないから囲碁をしていたのかも?
2015-11-14 18:53:42作家の蒲原二郎です。歴史小説から現代小説まで何でも書きます。時には学術論文も執筆します。 出版関係、書店の方、ご連絡は kanbarajirou@gmail.com までお願いします。
@a_ri_no_ri 当時、鷹狩りには徳川の公許が必要でしたので、「公儀」イメージをアピールする狙いもあったんじゃないかなと推測。
2015-11-17 21:19:02@kanbarajirou03 公儀とは関係のない時期を書き残した『家忠日記』でも、鷹狩り関係の話題が多いので、元から好きだったのに+効果を期待ということかなと思います。
2015-11-18 21:12:12@a_ri_no_ri とった獲物をくれてやるという行為にもプラスアルファ効果があったんじゃないかなと。
2015-11-19 07:14:40狩りの後、場合によっては「御料理」があって近侍の者たちがそれを「賜」っている。これを家康が「料理をした」と解釈していいのかどうか。料理をさせたって書き方じゃないんだよなー。( ̄^ ̄;)ウーン
2015-11-14 19:01:34家康と 銘刀
慶長16年3月に家康から秀頼に送られている「鍋通御脇差」は「鍋通貞宗」のことか。検索をかけたら、『豊臣家御腰物帳』に記載されている「一之箱」に入っていた情報しかなかった。一緒に贈られた「大左文字の御腰物」は関ケ原佩刀ネタありか。これは今、徳川美術館にあると。
2015-11-15 19:07:50@a_ri_no_ri でも、将軍家に残っているのは「菖蒲正宗」だから、関ケ原のときに家康が佩刀したのは「菖蒲正宗」の可能性が高いだろうな。
2015-11-15 19:17:05名物「盲亀浮木図小柄」は、物吉貞宗の拵に用いられていた? 大海に一眼の亀がいて、百年に一度だけ海面に顔を見せ、そのとき水面上に漂う浮木に出逢うという話に基づき千載一遇の幸運に恵まれるたとえ、からの「亀」と「浮木」の象嵌。物吉貞宗は「亀」の小柄付だったのか。(´・ω・`) ヘー
2015-11-15 20:06:39『刀剣名物帳』だと「物吉」の由来は「家康公御秘蔵ニテ度々能切レ候故」となっていて、「よく切れる(良いものだ)から、『物吉貞宗』」という名称の付け方になっているな。多分、こっちがもともとの『物吉』の由来じゃないのかな。
2015-11-18 21:15:53「物吉」という名称に、家康の戦勝と小柄の「盲亀浮木図」が示す「好運」が重なって、帯びて出陣すると必ず勝利を得た、という逸話ができたのではないだろうか。家康が物吉貞宗を得た時期が遅く、関係する戦が大坂の陣くらいしかないという前提だと、この方が辻褄が合う。
2015-11-18 21:19:50ただ、この 「良く切れるいい物だから、物吉貞宗!」 という名前の付け方でも、家康のネーミングセンスだけは決して「揺るがない」のは流石と言うべきか。
2015-11-18 21:21:22家康が秀頼に贈った「鍋通貞宗」は一之箱に入っていた。(その後、大坂の陣で行方不明) 同じ貞宗でも「物吉貞宗」が三之箱?だとすると、「(豊臣ではあまりいい扱いを受けなかった)無銘のボクですが、」という感じだったりするのか?
2015-11-18 21:29:52同じ一之箱に入っていても「鍋通貞宗」は行方知れず、「大左文字」は無事に家康の所に戻っている。骨喰藤四郎が大丈夫だったことからしても、落城前に割と持ち出されたりしてたんだろうな。
2015-11-18 21:32:58