私家版ハイデガースタディー10 沈黙から語りへの転回の内的必然性

私家版は、ツイッターしながらハイデガーを読む保管庫。今回はGA26『ライプニッツを端緒とする論理学の始元諸根拠』の第二部を読むもの。 同書は、ハイデガーのメタ存在論への転回の書。しかし、何の転回であるかで転倒すると、多くの現代思想的雑言となる。それは伝統的形而上学、心身二元論、素朴実在論的反省、すなわち潜勢的霊魂規定という、近現代においてドグマになり、そのドグマが沈黙させてきたものからの転回だからだ。 現代人は「形而上学嫌い」という先入見に欺かれている。それが、カントが依拠したヴォルフ~バウムガルテンの非本来的形而上学のことだ、というのがハイデガーだが、ライプニッツはデカルト的明証を、論理学的同一性(等式という真理)に求めてしまった。それに対して、ハイデガーは真理を、日常性が隠蔽するドグマの開示(基礎存在論)とすることで、真正な順序性=根拠律として、内的必然的にメタ存在論へ転回する。 続きを読む
2
前へ 1 ・・ 26 27
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

延長=問われるもの=真理(同一律)の明晰判明さ、を認識することが先行すると、問われる真理は無規定性に頽落し、同一律が矛盾律になるのだろう。真理より根拠が始源的問いであることで、有限性が規定される。 pic.twitter.com/pLkrddJ3fp

2015-10-31 10:41:00
拡大
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

問うことに無限があるのか、真理=問わないことに無限があるのか。数学は無限が問えないことの明証(無限大を解答不能と宣言するために数学は分節している)だが、問い自体に無限がないこと、が問われなければならない。 pic.twitter.com/nvTVdw5aP7

2015-10-31 10:10:23
拡大
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

明証とは証明しない判明な真理だが、明証するためには問うこと=形而上学が先行しなければならない。存在論は判明な形而上学。形而上学は証明だけに判明さを求める。しかし、証明は問うこと=形而上学の全てではない。 pic.twitter.com/bMpUSRouv5

2015-10-31 09:57:38
拡大
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

問うことか、問わないことか。形而上学とは問うこと。真理の認識の判明さとは、問わない・問えないこと。問えない判明な真理は矛盾。判明な真理は問うこと=形而上学からのみ生まれる。判明とは問わないことではなく、問いの明晰さ。

2015-10-31 09:52:42
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

今回の入院のお供はハイデガーのライプニッツ講義。デカルトとカルテジアンの欺瞞がこれでもかとやり込められる。問うことの一点化としての形而上学に対して、真理=問わないことの判明さ=真理としての認識論が齎す延長。どちらが始源の根拠か。evernote.com/shard/s157/sh/…

2015-10-31 09:43:46
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

昨日手術で片目しか見えない。twitter.com/sunamajiri/sta… それでもハイデガーを読むと心が落ち着く。片目だと飛ばし読みができないのだが、ハイデガーはそれでちょうどよいペースになる。今回の入院のお供はライプニッツ講義。 pic.twitter.com/vfBieQpHtk

2015-10-31 09:32:55
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

手術はこれ。感官自体を手術されると、世界がバカデカルトがいうような延長でないのを魂で思いしらされるから、カルテジアンのバカ認識論者は一度眼の手術受けてみろ(^-^)/ youtube.com/watch?v=kWobGW…

2015-10-30 14:49:06
拡大
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

まさにそれね。曖昧な言明なら黙するしかないということ。@inja650rr 要するに記述が曖昧であったのだと思います。神の存在証明にしても曖昧であったからこそ、批判され。だからこそ教会から隠れる事が出来た。非言明にこそ真意を隠す事ができ、故によく生きる事が出来るのかもしれません。

2015-10-26 18:49:27
前へ 1 ・・ 26 27