自由意志と信仰体系と存在の問題
- makoJOSIAH
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自由意志の否定を嫌っていません。 唯物論者を名乗りながら自意識や自由意志があるのを自明と捉え疑問にも思わず、別の信仰を反知性的と宣う、そのような態度が嫌いです。 twitter.com/theloyaltouch/…
2016-01-19 19:17:56@makoJOSIAH ただせっかくこんな面白いテーマで語ってくれてるんで、よかったらもっと突っ込んで自由意思について説明してほしいですけどね。特になぜ自由意思の否定をそんなに嫌うのかとか、信仰によってそこがどう克服されたのとか
2016-01-19 19:08:12@makoJOSIAH ああ、唯物論を担ぐ人に宗教者が下に見られたのが嫌だったのか。まあそりゃそうですよね。
2016-01-19 19:27:40信仰が自由意思の問題を克服するというわけではありません。(たとえばキリスト教においても別の文脈で自由意思と決定論の論争が昔から行われている)
2016-01-19 19:30:51物理法則に従うもののみから宇宙が構成されているという世界観は、 「意思決定はラプラスの悪魔的な決定論または現代の統計・量子・複雑系力学で扱われるような確率的過程により選択され進行する現象である」 という帰結を生む。論理なるものが人間が感じる形で世界の真理を反映して実在するならば。
2016-01-19 19:34:31唯物論を信じるならば我々が感じているような形での自由意思は実質的には存在していないと信じることで矛盾のない正しい体系を組める。 もし逆に自由意思をナイーブに我々が感じてしまうようなものとして実在すると信仰する場合、物理法則に従わない存在を仮定しなくてはいけない。
2016-01-19 19:35:18@makoJOSIAH (あかんのかいな)makochan♪自身は何か答えのような物は持ってるんですか?
2016-01-19 19:39:14まずもって、全ての思想は無限に優越する存在者を持つ。 たとえばアインシュタインの世界観で言えば"世界の存在"。 宇宙を永久の昔から永久の未来まで不変のもので、何かから生じたものでなく「元から」(実際には"元"などという無限過去に定まる点はないが)自存していたと捉える。
2016-01-19 20:11:18また仏教の世界観における超越もこれと似て"世界の存在"。仏教は因果信仰なので科学的思考と似るが、万物の起源などは因果の無限の果てに飛ばして思考の俎上に上げない。アインシュタインの静的宇宙よりは生々流転する宇宙観と思われるが、万物の起源などというのはこの円環的世界観には関係がない。
2016-01-19 20:14:07現代科学の主流の考えは上述の"世界"よりメタな"世界"と"法則"。法則は生じたものでなく、また法則を生かして前者の"世界"を生成するための"場"(後者の"世界")が必要。理神論や唯物論と親和性が高い。
2016-01-19 20:14:33これらのうち、自意識や意思を実在と捉えるなら仏教、デカルト、キリスト教、理神論などと相性が良く、 自意識や意思を不在と考えるなら仏教、アインシュタイン、理神論、唯物論などと相性が良い。
2016-01-19 20:18:31仏教と理神論はどっちの立場にもなりうる。キリスト教は究極的には意思の存在を信じる(神の意思)が人の意思は神学により程度が違う。 僕は人のナイーブな意味での意思から実在と捉えている。
2016-01-19 20:19:20しかし自意識や意思を実在と捉えて前者三つに類する信仰を選んでも、自意識や意思がなぜあるか、という問いには「世界に魂が存在していたから(仏教的)」とか「自意識こそが実在である。これは原理(デカルト的)」とか「万物の起源たる神が持っていたから(キリスト教的)」としかならない。
2016-01-19 20:22:40自意識や意思の存在について考えるとき、結局は"存在の問題"に行き着く。「なぜ何もないのではなく、何かがあったのか?」という。
2016-01-19 20:34:26唯物論は法則の起源を説明できないが法則を根源的なものとして閉じた体系を組める。 一神教は神の起源を説明できないが神を根源的なものとして閉じた体系を組める。 仏教は世界の起源を説明できないが世界を根源的なものとして閉じた体系を組める。
2016-01-19 20:42:13さて、自意識や意思の問題に戻って僕の信仰に関して言えば、 哲学的な方向としては、自意識や意思を全て確率的決定と考えるのは無理があると個人的な感覚を持っているため、そちらを優先すれば物理法則に従わないものの実在を仮定せざるを得ない。
2016-01-19 20:50:03宗教的な方向としては、キリスト教の神は万物の根源であり、人間の意思は神に由来する。神がなぜ意思を持っていたか、などの問題は重要ではあるが、神がなぜいるかと同様、キリスト教の体系内では説明できない。
2016-01-19 20:52:18なぜ人に自意識や意思決定権が付与されたかは、おそらく神が愛の神であることに起因する。愛し愛される対象として人を創り、そのために世界が創造された。愛が愛であるためには機械仕掛けでは意味がなく、神自らが持つような意思的選択で神を愛してほしいと思っただろう。
2016-01-19 20:53:58よって僕は単なる個人的な感覚として自意識と意思の実在とその帰結としての物理法則を越える存在の実在を信仰し、 信仰しているキリスト教に立った神学的考察からも自意識と意思決定権の実在を信仰している。 これはただのトートロジーだが、全ての信仰体系は科学も数学も含め厳密にはトートロジー。
2016-01-19 21:03:53そのために人間には自由意思が、"神に従わない"という意思決定まで可能なほど厳密に付与されたはず。 すると完全予定説の神学には違和感を感じる。人がただ神の操り人形ならば、神にとって人は創出する価値がほとんどないように思われる。
2016-01-19 20:56:27@makoJOSIAH というか脱線すると僕の考えもある意味では完全予定説と名付けることができる。つまり人が自由に選択してχρονος的時間を一次元的に進行するが、それは神のκαιρος的時間から見れば全ての道筋が見通せているためある意味では決定している。
2016-01-19 21:08:53