分析美学基本論文集 (読書メモ)

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未発育都市 @mihatsuikutoshi

自律主義の誤りについては、この本のこれまでの1~8の論文でも批判されていたように、芸術は非顕示的な性質(外的な価値)を持ち得るからである。とは言え、正直言って、僕は自律主義者たちの考えに共感してしまう。。引用すると、「彼ら(自律主義者たち)の考えでは、美的な文脈にであろうと(続く

2016-01-31 23:11:18
未発育都市 @mihatsuikutoshi

続き)その他の文脈においてであろうと、…真ないし善であるよりもむしろ、独創的で興味ぶかいものでなくてはならない。このことは、芸術が表明する道徳的な主張…にたいしては、そもそもこうした主張は他のなにものにもまして自明の理や陳腐さに堕してしまいがちであるだけに、いっそう明らかとなる」

2016-01-31 23:12:47
未発育都市 @mihatsuikutoshi

続き)また、劇作家のデイヴィッド・マメットは「道徳主義者にとっての社会目的に奉じる演劇がひろく普及している現状を嘆いて」、つぎのように述べている。「議論の余地のないことを主題にする劇というのはなにも探求しておらず、なにも探求したくはないという欲求のほかになにも表現していない」と。

2016-01-31 23:15:11
未発育都市 @mihatsuikutoshi

このように、芸術を道徳主義の侵入から守ろうする姿勢は部分的には建築家のパトリック・シューマッハ氏による建築のポリティカル・コレクトネス化への批判と重なっているのかも知れない。いずれにせよ、これはとてもタイムリーなテーマであると思う。 twitter.com/mihatsuikutosh…

2016-01-31 23:16:34
未発育都市 @mihatsuikutoshi

建築家のパトリック・シューマッハ氏がDezeenのコメント欄で、2016年度のプリツカー賞を建築家のアレハンドロ・アラヴェナ氏が受賞したことについて批判している。建築は「ポリティカル・コレクトネス」(PC)に乗っ取られたと。(続く twitter.com/Dezeen/status/…

2016-01-15 17:26:29
未発育都市 @mihatsuikutoshi

道徳主義(ヒューム的道徳主義)に対するジェイコブソンの反駁は、まず第一にヒューム的道徳主義者たちは「不道徳な芸術は美的な欠陥をかかえている」という定式を掲げているにも関わらず、不道徳であるとも言えるが優れた芸術(例えばジョイスの『ユリシーズ』やシェイクスピアの『マクベス』や(続く

2016-01-31 23:21:25
未発育都市 @mihatsuikutoshi

続き)イプセンの社会的リアリズム風の劇など)はさすがに批判できないという点である。ヒューム的道徳主義者たちは「優れた芸術が誤った考えや邪悪なものの見方を表現することもありうるという想定にたいしては、はるかに居心地悪く感じて」いて、そういった芸術に対しては自身の見解を明らかに(続く

2016-01-31 23:22:30
未発育都市 @mihatsuikutoshi

続き)していない場合も見られるとジェイコブソンは指摘している。また、第二にヒューム的道徳主義者たちは「道徳的に善ければそのぶんだけ作品も優れたものになる」という定式も掲げているのだが、ジェイコブソンは「作品の道徳的な価値、認知的な価値、そして美的な価値の三者は(続く

2016-01-31 23:25:06
未発育都市 @mihatsuikutoshi

続き)ときに解きがたくむすびついている」ために芸術作品は「矯正不可能」なのであると論じている。実際、ある芸術作品の道徳的な面をちょこっといじったら優れた作品になりました、なんて話は僕はあまり聞いたことがないし、むしろそれによって改悪されたケースのほうが多いのではないかと思われる。

2016-01-31 23:26:27
未発育都市 @mihatsuikutoshi

また、ヒューム的道徳主義者たちは前述の「道徳的に善ければそのぶんだけ作品も優れたものになる」を掲げている一方で、「ヒューム的道徳主義者たちが批評実践に打ってでるとき、彼らは往々にして安易な事例に照準したがる。…人種差別や性差別、階級差別、同性愛恐怖といった、アカデミックな(続く

2016-01-31 23:30:54
未発育都市 @mihatsuikutoshi

続き)左翼の信念と齟齬をきたすような道徳上の欠点をかかえた作品をはげしく批難する」とも述べている。ここにヒューム的道徳主義たちの奇怪さがある。つまり、「中身」がないのである。これを分かりやすく住宅で例えれば(?)、換気扇とコンロはあるが鍋がないという変な状態のことである(どんなだ

2016-01-31 23:32:16
未発育都市 @mihatsuikutoshi

これな。道徳主義者たちは「中身を抜きさってしまう」のである。僕はべつに道徳を否定してはいないが、僕がいわゆる教条的な道徳主義者たちに対して常日頃、感じているような違和感をこの説明が最も適切に表現しているように思える。 twitter.com/mihatsuikutosh…

2016-01-31 23:35:59
未発育都市 @mihatsuikutoshi

続き)…に押しこもうとするが、理論を十分に包括的にしようとするそうした試みが帰着するのはけっきょくのところ、パラダイムとなる概念からその中身を抜きさってしまうことでしかない」と述べている。要するに、道徳主義者たちが思い描いている人間像(理想的な人間像)はあまりにも不自然で、(続く

2016-01-30 23:02:26
未発育都市 @mihatsuikutoshi

続き)これは例えば、例の新国立競技場問題で再コンペの以前にザハ案に反対していた建築家たちが提案した新国立競技場の代案はどれも「ポンチ絵」か「何も建てない(森や広場)」で、つまり、明らかに建築の作品性を消した表現にしていたのはなぜか、という僕の疑問の解答にもなっているように思える。

2016-01-31 23:38:29
S H O D A I @Ringoski

@mihatsuikutoshi 長谷川豪の『カンバセーションズ』も、現代建築があまりに社会問題にリアクティブになり過ぎているのではないか、建築の価値はそんなところから生まれるのか?という疑問から生まれた対話で興味深かったです。タイムリーですね。

2016-01-31 23:23:49
未発育都市 @mihatsuikutoshi

@Ringoski それは興味深そうですね。情報、ありがとうございます。/ 長谷川豪著『カンバセーションズ――ヨーロッパ建築家と考える現在と歴史』 amazon.co.jp/dp/4864800162 メモる_φ(・_・

2016-01-31 23:41:51
未発育都市 @mihatsuikutoshi

そして、第三にそれゆえかヒューム的道徳主義者たちの論考を読み解くと、ヒューム的道徳主義者たちは「自分の信条に相反して、美的な価値についての本来ならば支持しがたい形式主義的な考えをいだいているという事実」がある点もジェイコブソンは指摘している。

2016-01-31 23:51:32
未発育都市 @mihatsuikutoshi

最後に、第四にヒューム的道徳主義者たちは「芸術はなにが倫理的に正しいかを我々に教示することができる」とし、芸術に「倫理的な機能をはたさせようとする人道主義的な野心をも心にいだいている」とジェイコブソンは述べている。これは見方によってはおぞましいディストピアではないだろうか。(続く

2016-01-31 23:53:25
未発育都市 @mihatsuikutoshi

続き)または、これは中世(プレモダン)への回帰である。近代化を経たポストモダンの現代において、それにも関わらず、シェイクスピア以前の時代の規範へと戻るのはあまりにも退行的すぎると僕は考える。 twitter.com/mihatsuikutosh…

2016-01-31 23:55:49
未発育都市 @mihatsuikutoshi

ちなみに、シェイクスピア以前の演劇は「道徳的な訓育の手段として利用できる」と位置づけられていて、演劇では「徳がつねに報われ悪徳はかならずや罰せられるさまを見せること」が求められていたそうだ。言うまでもないが、そんな演劇の制約(詩的正義)をぶち壊したのがシェイクスピア様である。

2016-01-28 22:42:30
未発育都市 @mihatsuikutoshi

というわけで、美学の道徳主義(ヒューム的道徳主義)も形式主義(の自律主義)も誤っている。終わり。

2016-01-31 23:56:49
未発育都市 @mihatsuikutoshi

あと、昨日読んだところ(ジェイコブソンのこの論文の核心のところ)の説明を昨日していなかったので、すごく大ざっぱに説明すると、道徳主義者たちは「感情と行為を直結させる」 twitter.com/mihatsuikutosh… ことを求めるが、これがなぜ誤りであるかについてである。(続く

2016-02-01 00:02:52
未発育都市 @mihatsuikutoshi

なぜ道徳主義が怖いのかは前述のジェイコブソンの論文を読めば、それなりに分かる。道徳主義者たちは感情と行為を直結させるからである。

2016-01-31 00:10:15
未発育都市 @mihatsuikutoshi

続き)一言で言えば、人間はそうじゃないといったところなのだが、ポイントは分析美学は「日常」に基づいているということ。感情と行為が一致している人間なんて、考えてみれば奇怪である。まぁ、極寒の地の滝壺で何百年も滝に打たれて悟りでも開けば、その境地に達することがあるかも知れないが(続く

2016-02-01 00:04:23
未発育都市 @mihatsuikutoshi

続き)それは私たちの「日常」とはあまりにもかけ離れているし、また、自分こそはそのような境地に達した人間であると見なすのは分析哲学者から見れば「うぬぼれ」以外の何者でもない。

2016-02-01 00:05:50
未発育都市 @mihatsuikutoshi

ジェイコブソンは人間は対象に対して「感情」「認可」「行為」の3つの段階を瞬時に処理していると論じている。そしてこの3つは互いに非関与的で、例えば「感情的な反応」と「その反応としての正しさ」は違うことなどを精密に論じている。つまり、道徳主義者たちが思い描いている人間像よりも(続く

2016-02-01 00:08:52
未発育都市 @mihatsuikutoshi

続き)こっちのほうが私たちのリアルな日常を反映しているということである。これをより分かりやすく(?)説明すると、例えばある人が自分に向かって嫌なことを言った時、自分は嫌な思いをするが(感情)、その人の言い分が相手に非があるのかそれとも自分にあるのかを判断する(認可)、そして(続く

2016-02-01 00:10:56
未発育都市 @mihatsuikutoshi

続き)相手に非があればその相手に向かって批難することもあれば、そんな相手は無視しようと決めることもある(行為)といった具合である。このように「感情」「認可」「行為」の3つの段階はばらすことができて、その組み合わせは多様である。そして、これが常識的な私たちの日常であるというわけだ。

2016-02-01 00:12:46
未発育都市 @mihatsuikutoshi

続き)更に、ここでの対象には芸術作品も含まれる、ということである。よって、芸術作品には「不道徳な芸術」も含まれるというこの論文の核心となる結論へ至るわけである。また、ジェイコブソンは「不道徳な芸術」は私たちに多様な見方を提供するという重要な倫理上の機能を果たすとも論じていて(続く

2016-02-01 00:16:38
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