バタイユとラカン=ジジェクPart2-「神の死」と「現実的なものへの情熱」について-

げしゅさんとの議論をまとめてみました。 (途中のケイさんのツイートはまさに〈非-知〉体験でした)
1
げしゅ☆ぺんすと @Gespenst177

そういえばようやっとアブラさんが言ってた例の記事をコピってきたので読むとしよう。

2011-02-14 17:45:09
げしゅ☆ぺんすと @Gespenst177

ほとんど何を言っているのか分からないのだけど…w。

2011-02-14 18:28:01
げしゅ☆ぺんすと @Gespenst177

これはかなり真面目に読まないとだめだな。

2011-02-14 18:29:25
アブラクサス・アイオーン @Abraxas_Aeon

@Gespenst177 あれマジで解らないんです・・・。あれから「実存」の語法を調べたりしたんですが・・・。フーコー特集、一部除いて解らないのが多いんですが、あれは輪をかけて解らないんです。

2011-02-14 18:45:59
げしゅ☆ぺんすと @Gespenst177

@Abraxas_Aeon 正直日本語としておかしい部分も多い気がして、割に訳がやっつけ仕事なのかなぁとも思ったりします。まぁ訳に文句を言うのは最終手段wなので、もう少し頑張って読んでみます。

2011-02-14 18:49:58
げしゅ☆ぺんすと @Gespenst177

@Abraxas_Aeon 基本線としては神の死が伝統的な無限性の終焉を表現しているが、それを単に有限性の肯定としてはならず(=動物的ヒューマニズム?)、別の形の無限性を探求しなければならない、それがサルトルやフーコーがやってたこと的な感じですかね。現在流し読み以下の状態ですが。

2011-02-14 18:51:51
アブラクサス・アイオーン @Abraxas_Aeon

@Gespenst177 私ももうすぐ家につくのでまた見てみます。とはいっても私ほとんど解らないままなのでなんともいえませんが(汗

2011-02-14 18:56:43
アブラクサス・アイオーン @Abraxas_Aeon

@Gespenst177 はい、そういう路線であったと思います。

2011-02-14 18:59:53
げしゅ☆ぺんすと @Gespenst177

二回目少々真面目に読んだら大体分かった気がする。

2011-02-14 20:14:40
げしゅ☆ぺんすと @Gespenst177

あれ、勁草書房のHPって最近綺麗になった…?こんな現代的な感じではなかった気が。

2011-02-14 20:17:15
げしゅ☆ぺんすと @Gespenst177

まぁ大体自分が読みとれた限りのことを書いておきましょう。

2011-02-14 20:31:50
げしゅ☆ぺんすと @Gespenst177

あ、というのは「我々の有限性をどうするか?バディウによるサルトルとフーコーの読みなおし」というフローランス・ケマックスという人の記事についてです。

2011-02-14 20:34:33
げしゅ☆ぺんすと @Gespenst177

古典的形而上学の体制において無限なる彼岸の神と有限なる人間が分かちがたく結びついていた。しかし、神の死によってこの体制は崩壊する。それは無限なる神の死であると同時に、有限なる人間の死でもある…。

2011-02-14 20:34:50
げしゅ☆ぺんすと @Gespenst177

形而上学崩壊以後の人間の構想において、人間をそのまったき有限性において、ある特定の本性を持ったものとして考える動物的ヒューマニズムという立場がある。動物的というのは、恐らく無限性の次元が消去されているからだろう。

2011-02-14 20:35:15
げしゅ☆ぺんすと @Gespenst177

一方、無限性を有限性のひとつの質として考えることで、人間に再び別種の無限性を付与しようとする立場がある。それがサルトルやフーコーがとった道である。有限性のひとつの質としての無限性とは生成の無限性である。

2011-02-14 20:35:25
げしゅ☆ぺんすと @Gespenst177

この無限性は、神の様な無限の存在ではなく、有限なものの絶えざる自己超越、生成的変化としての無限である。だからフーコーもサルトルもその人間の探求において、始まりと生成を肯定し、人間存在を規定/限定する実体的本質を拒否し、開け、開始、投企としての価値を持つ中心概念を提案したのである。

2011-02-14 20:36:09
アブラクサス・アイオーン @Abraxas_Aeon

げしゅさんの解説が解りやすくて泣ける…。

2011-02-14 20:39:14
アブラクサス・アイオーン @Abraxas_Aeon

げしゅさんが読み取られた箇所、あのフローランス・ケマックスって人の認識だとサルトルとフーコーがほぼ同じ道をたどっているように見えるわけなんだが、私はそこら辺の読み方的にどうなのかって思ったわけで、予備知識が足りなさすぎるな…。

2011-02-14 20:49:49
げしゅ☆ぺんすと @Gespenst177

まぁそんな感じです。バディウが二十世紀を特徴づける際に用いている「現実的なもののパッション」というものの意味、この記事での位置づけが良く分かりませんが。この概念にはジジェクも『操り人形と小人』あたりで言及していたはずで、「現実的なものへの情熱」の典型といえばバタイユだと言っていて

2011-02-14 21:00:06
げしゅ☆ぺんすと @Gespenst177

てっきり現実的なものというのはラカン的な意味でのことなのかと思っていたけど、この記事だとあまりそんな感じでも無い。

2011-02-14 21:00:16
げしゅ☆ぺんすと @Gespenst177

ところでジジェクによるとラカンのセミネールⅦ『精神分析の倫理』はラカンがバタイユに極めて接近したセミネールらしい。また別の話だけど、ラカンは、当時ラカンの娘になっていた獄中(アルジェリア闘争のため)のローレンス・バタイユにこのセミネールを届けたとか。

2011-02-14 21:01:47
アブラクサス・アイオーン @Abraxas_Aeon

@Gespenst177 真面目に考察してくださって感謝感激です。ジジェクのバタイユ言及がどういう文脈かがもう少し知りたいところですね。「現実的なものへの情熱」あたりのことですが。

2011-02-14 21:09:17
げしゅ☆ぺんすと @Gespenst177

@Abraxas_Aeon そうですね、そのあたりのことについては自分も少し気になっていたので近いうちにちょっと書こうと思います。

2011-02-14 21:15:58
アブラクサス・アイオーン @Abraxas_Aeon

@Gespenst177 『内的体験』でバタイユが「現実的なもの」って言うときは、「現存在の総体」とか、「推論的現実」とかの方だと認識してます。言い換えれば推論的思考[=知]の有機構造ですが。

2011-02-14 21:19:34
げしゅ☆ぺんすと @Gespenst177

@Abraxas_Aeon ケマックスの記事だと、現実的なものへの情熱は内在への情熱だとなっていますけど、ラカン的に解すれば、現実的なものへの情熱は、(いろいろと複雑な話はありますが)基本的には超越的なものへの情熱であるということになります。まぁ内在/超越自体が曖昧な言葉ですが。

2011-02-14 21:36:13