徳川家康が病没するまでの過程

*徳川家康が元和2(1616)年正月21(22)日に具合が悪くなり、4月17日に没するまでの過程を金地院崇伝の日記『本光國師日記』ほかの史料を用いて順にツイしたものの途中まで。日記&書状などの情報・誤訳の指摘歓迎。(3/10より)
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アリノリ @a_ri_no_ri

4月4日−3 上と同じ書状:「併四日之朝、八年ニなり候たいたう米のかゆのゆを少上り候て、よく御腹中ニ納り、御心よく御座候而、それよりひつち米の御かゆなど少つゝ細々上り申候」→4日の食事は「かゆのゆ=粥の湯」「御かゆ」を少し。食べないので、米で工夫している?

2017-03-24 19:26:04
アリノリ @a_ri_no_ri

4月4日ー4「梵舜日記」 「御城へ罷出、大御所御気色快気之由、諸人一祝申了」→伊達政宗との面会?などがあったためか、家康が「快気」したと聞いて、人々がお祝いを言ったとある。実際は崇伝の書状にあるように、「草臥」て少しのお粥をどうにか食べている状態である。

2017-03-24 19:27:11
アリノリ @a_ri_no_ri

4月5日、6日「言緒卿記」 「前大樹少元気由承」→冷泉為満と山科言緒は毎日ではないが、駿府城への登城を継続。家康には会えていないようで、伝聞情報を言緒は日記に書いた。「少元気」とはそのままの意味だろう。8日に秀忠が浅間神社での祈祷を命じており、容態の悪化が推測される。

2017-03-24 19:28:36
アリノリ @a_ri_no_ri

4月6日 板倉勝重への書状:「相國様御気相、彌御験気ニ御座候て、昨日も御かゆねつはりとし候を、日の中ニ四度、夜ニ入候て壹度、以上五度上り申候、御中椀ニ半分程つゝ上り申候か」→茶碗半分のおかゆを1日5回食べる状態が「元気」と表記される状態である。

2017-03-24 19:30:32
アリノリ @a_ri_no_ri

4月7日 この時点での在府継続の大名:松平忠直(結城秀康の子,家康の孫)、蒲生忠郷,細川忠利,有馬豊氏(家康の娘・養女などと通して、親族となる大名) 在府の公家:山科言緒,冷泉為満(勅勘により職を失い、家康から禄をもらい、仕えていた時期がある貴族)

2017-03-24 19:31:38
アリノリ @a_ri_no_ri

4月9日 板倉勝重への書状:「相國様御気色、彌御験気ニ御座候、御粥など少つゝ細々上り申候、九日之晩ニハ、少御吐却被遊、御気おもく御座候而、上下如何にと案申候ツル」→他の人物の日記や書状には以前からあったが、崇伝が「吐いた」と表記したのはこれが初めて。

2017-03-24 19:32:27
アリノリ @a_ri_no_ri

4月10日 9日と同じ書状:「十日之朝より、又御気色はつきと能被為成、御粥をも能上り申候、永々之御事ニ御座候故、少ハ御草臥被成躰ニ御座候」→意識がはっきりしてお粥もよく食べたとあるが、長く煩っているため、くたびれているようだともある。表記から、意識がはっきりしないときありか?

2017-03-24 19:33:49
アリノリ @a_ri_no_ri

4月11日 板倉勝重への書状:「相國様御煩、追日御草臥被成候、此十一日よりハ、一切御食事無之、御湯など少参候躰候、もはや今明日之躰ニ候、何ともにかにか敷義」→食事ができなくなり、お湯を少し飲む状態になっている。崇伝もさすがに「今日か明日か」と書いている。

2017-03-24 19:34:36
アリノリ @a_ri_no_ri

4月13日−1「言緒卿記」 「大御所様御煩散々也、至晩頭城之門共鎖〆人ヲ撰了」→山科言経は、冷泉為満とともに駿府城に登城し、家康の容態を「御煩散々=ご容態がひどい」と記した。晩に城の門を鎖で閉め、出入りする人を選別している。警備の強化か、呪術的な意味か?

2017-03-24 19:35:22
アリノリ @a_ri_no_ri

4月13日ー2「梵舜日記」 「御城へ罷出、御煩以外之外之由也」→先の「言緒卿記」と同じ情報である。梵舜も駿府城に登城しているので、山科言緒と仕入れることができる情報は同じなのか?ただ、次の14日の情報は違う。内容から判断して、言緒の方が情報が正確なようだ。

2017-03-24 19:36:16
アリノリ @a_ri_no_ri

4月14日ー1「言緒卿記」 「大御所様御煩今明日中ニ他界可被成之由承了」→言緒も崇伝と同じように「今日か明日か」と記している。「承」とあるので、家康がもう直ぐ死ぬかも、という情報は伝聞である。この翌日、言緒は崇伝や天海を訪ねている。情報収集のためか。

2017-03-24 19:36:47
アリノリ @a_ri_no_ri

4月14日ー2「梵舜日記」 「今日可罷上ヲ、御所様少快気被成候故、上義延引申了」→梵舜は秀吉を祀る豊国社の社僧である。この日は「罷上=上洛?」の予定であったが、家康が少し良くなったので延期したとある。先の「言緒卿記」と家康の容態に関する情報が真逆である。

2017-03-24 19:38:21
アリノリ @a_ri_no_ri

4月15、16日 家康の容態に関する記述はない。11〜14日の記述からして、「今日か明日か」という状態が続いていたのだろう。

2017-03-24 19:38:39
アリノリ @a_ri_no_ri

4月17日「本光國日記」 「元和貳年丙辰卯月十七日巳刻、大相國従一位源家康御他界也、御年七十五」→1616年4月17日午前10時頃、徳川家康、死去。数え年75歳。梵舜日記は「巳刻過ニ」、慈性日記は「ひるまへ」、言緒卿記は「巳刻ニ」、他の日記も大半が巳刻と記す。

2017-03-24 19:39:52
アリノリ @a_ri_no_ri

4月17日「言緒卿記」 山科言緒は「御烏帽子・狩衣之由(着躰之由)承了」と記す。言緒と冷泉為満は家康の遺体に装束を着せる仕事を任されたようだ。以前から、在京中の家康に装束を着せるのは、この2人の担当であった。最後の着付けを済ませた後も2人は秀忠から在府を依頼される。

2017-03-24 19:42:57
アリノリ @a_ri_no_ri

4月18日「言緒卿記」 「寅刻ニ前大樹クノヘ収申」→18日の午前4時頃、狩衣に着替えた家康の遺体は駿府城から久能山に移された。4月24日に秀忠が駿府を離れて江戸へ向かい、山科言緒と冷泉為満も久能山にお参りをしてから、27日に駿府を出立して京へ戻った。

2017-03-24 19:43:23
アリノリ @a_ri_no_ri

4月21日「言緒卿記」 「和漢獨吟二三日以前ヨリ仕、今日百韻滿了」→山科言緒は18日?から「和漢独吟」をしていて、この日に「百韻」を終わらせた。開始した日からして、家康を追悼する歌を詠んだのか?言緒と家康の付き合いは天正19年から始まり、この年に終わった。

2017-03-24 19:44:04
アリノリ @a_ri_no_ri

4月4日〜17日 総括1:家康は3月29日には駿府に来た公家・大名らと対面し、30日と4月4日?に伊達政宗と話をして今後を託した。このあたりまでは意識もはっきりして会話もできたようだ。崇伝の「御気おもく」「御気色はつき」の書き分けが明瞭な意識の有無なのだろう。

2017-03-24 19:45:10
アリノリ @a_ri_no_ri

4月4日〜17日 総括2:崇伝の「御験気=お元気」を字義通りに捉えると、4月9日まで元気であったように思えるが、1月下旬から食欲不振が継続している上に意識がはっきりしないときもあるようなので、この「験気」は「ひどいときに比べたら元気」くらいの意味であろう。

2017-03-24 19:45:49
アリノリ @a_ri_no_ri

まとめ考察1:徳川家康の死因は天ぷらと説明されることが多いが、鯛の天ぷらを勧めたとされる茶屋四郎次郎は家康没前後に罰を受けた形跡もなく、没後も他の家康側近とともに崇伝の所に出入りしているのが確認できる。四郎次郎は天ぷらを勧めてないし、家康も天ぷらを食べていないに違いない。

2017-03-24 19:46:31
アリノリ @a_ri_no_ri

まとめ考察2:徳川家康の死因は天ぷらではなく「胃がん」と推測される。食欲不振、吐き気、痰、熱、咳に加え、「虫」と形容されている症状を胃のしこりか、腹水とすれば、胃がんの症状は揃っている。また、症状に「下痢」がないのも天ぷらなどの食あたりを否定できると思う。

2017-03-24 19:47:15
アリノリ @a_ri_no_ri

まとめ考察3:発病から死まで2ヶ月以上あり、その間、食欲不振がずっと続き、最後の方はほとんど物が食べられなくなっている。死因は「胃がん」であろうが、「栄養失調」もあったのでは?と思われる。また、これだけ食べてないのなら、死亡時は「痩せて」いた筈である。

2017-03-24 19:47:48
アリノリ @a_ri_no_ri

まとめ考察4:家康は死ぬまでの約2ヶ月の間に「太政大臣就任→遺言→久能山」をやり遂げている。上手くやったように見えるが、元和2年5月には自身の上洛と在京、8月に孫の竹千代(家光)の上洛&参内、元服の予定があった。まだやり残したことがある老人の死でもあったのだ。

2017-03-24 19:48:16
アリノリ @a_ri_no_ri

久能山史料だと家康の辞世は3つ 常に行道とは兼て知ながら去年の桜に風を待つつ 嬉しやと二度さめて一睡り浮世の夢は明ほのの空 さきに行跡に残るも同じことつれて行ぬを別れとそ云 一番上のは久能山史料で初めて見た。病んでいた時期的にはこの「常に〜」が季節として当てはまる。

2017-03-18 21:03:06
アリノリ @a_ri_no_ri

『徳川実紀』では、家康が愛刀の三池(ソハヤノツルキウツスナリ)で罪人を斬らせて、この刀を二、三度振るったのは、4月15日・16日としている。しかし、まとめに記したように、家康は11日から何も食べておらず、15・16日に立ち上がる体力があったとは到底思えない

2018-03-11 19:21:31
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