- kotosakikotoko
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七飯町史を読んでたら、函館市誌(市史でなく)の引用で『元武田、相原両家は人も羨むシウ睦の仲であった。コシャマインの乱に際し、相原政胤は武田信広と共に討伐に当り、武運拙くして城山の露と消えたので、信広は酋長の首級を以て、政胤に代へた事を痛嘆し、政胤の子季胤加冠の砌は自ら加冠父と(続
2017-05-01 19:25:44なった。後季胤は富久子、加都子の二女を義広、高広に嫁し、高広を我が嗣に定めようとしたが~』 とこれだけでも情報量多すぎるんだけど出どころは、出どころは何処だ!?
2017-05-01 19:30:38続き 『奸臣村上政儀が僭上奸邪の振舞多く、永正九年福山にある熊野神社勧進に際し、前年来悪疫流行し、海上遭難の多いのは、山海神が淫靡浮華の風を憎んだ結果であるから、人身御供を以て神怒を解く必要がありとし、季胤が反対したにも拘らず、蝦夷の美女二十四人の手足を緊縛し、石を結んで(続
2017-05-01 22:10:13矢越岬の海中に沈めた。蝦夷は憤怒し四月十六日大挙来襲し、箱館、志濃里、与倉前を攻略し、勢に乗じて松前を撃つべく吉岡に赴いたが、城主は民を山中に避難させたので、蝦夷大いに心傲り留守宅に営して痛飲した。深更村上政儀其の虚を衝き、八方に火を放って猛撃したので、流石の蝦夷も遂に潰走(続
2017-05-01 22:15:24した。 其の後政儀の失政に堪へかねて、旧民が武田光広に哀訴したので、光広は仁恵を加へ、民力を休養するよう季胤に忠告した。季胤惶懼して上の国に至り、光広に陳謝した。季胤は厚遇を受けて後、光広の長子義広を松前見物の為に伴って帰った。然るに政儀は季胤を説き、舟遊びに誘ひ出して義広を(続
2017-05-01 22:22:12殺害する計画をたてた。季胤の長女富久子之を知り、義広に告げて其の前夜逃げ帰らせた。翌日政儀は事の露見を知り、一挙に事を決せんと決意し、義広の従者三人を斬って血祭に挙げた。光広大いに怒り、終に松前城攻撃の軍を進めたが、松前に深い恨を持つ蝦夷も又蜂起して松前に進撃したので、(続
2017-05-01 22:25:40松前城は難なく陥落し、政儀は力尽きて自刃し、季胤は二姫を茅部郡の同族新井田、石見両氏に託せんと、逃れて大沼湖畔に来たが、蝦夷の追撃急で衆寡敵せず、父娘共に果ない最期を遂げた。 以上七飯町史引用、函館市誌より。
2017-05-01 22:28:07これ、史実とも思えないけど、そうだとしたら義広も高広も永正の蜂起で妻を失ってる事になるんだよな……。相原季胤伝説の中でも一等悲劇性が増す話だ……。
2017-05-01 22:30:51デジコレに函館市誌あった。本当便利だなぁ。 該当部分は60ページ63コマ目。出典は分からなそげ。 dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid…
2017-05-01 22:43:36