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韓遂は閻行に西平郡を治めさせるために派遣しますが、ここで閻行は韓遂に対して反乱を起こします。韓遂は部下の成公英に身内の離反を嘆き、蜀に亡命することを言い出します。成公英はこれに反対し、曹操自らは遠征に来ず、夏侯淵も長くは留まっていられないので、しばらく羌族を頼ることを勧めます。
2017-05-22 21:16:46212年、韓遂は羌族の地から戻り西平郡の郭憲を頼ります。西平郡の多くの人は賞金がかかった韓遂の首を狙いますが郭憲は彼らをとがめて「人が私を頼ってきたのになぜそれを危険に陥れられるか」と言い、あくまで韓遂を守りました。
2017-05-22 21:35:49郭憲は西平郡の名門です。曹叡の正室の郭皇后は西平の郭氏の出身です。黄初年間の戦乱で身分をはく奪されて後宮に入ったとあるので曹丕の時代に郭氏は一度没落し、曹叡の妃になったことで復活したのでしょう。他に西平の郭氏からは費褘を刺殺した郭循が出ています。
2017-05-22 21:40:26韓遂は213年に馬超が涼州刺史の韋康を攻撃して敗死させた際に馬超に呼応して羌族と共に再起しますが、馬超は楊阜らに反乱を起こされて妻子を殺されて漢中に逃げます。張魯の支援を受けて再び北上し趙昂と王異が守る祁山を攻めますが夏侯淵の部下の張郃の援軍が到着したので退却しました。
2017-05-23 21:00:27夏侯淵は到着すると韓遂に協力する羌族の本拠地を攻撃します。韓遂は救援に向かいますが羌族には離脱されたこともあり夏侯淵に敗れて金城に逃げ帰ります。夏侯淵は隴西郡の枹罕県に三十年割拠して河首平漢王を自称していた宋建も滅ぼして凱旋しました。
2017-05-23 21:08:08宋建は184年の北宮伯玉の乱のときから枹罕を支配して王を称して百官を置いていました。この間の宋建の事績は不明ですが、北の隣の金城郡に勢力を築いていた韓遂とは経緯はともかく同時に挙兵していて付かず離れずの関係だったのでしょう。
2017-05-23 21:11:25韓遂の最期には二つの説があり、一つは武帝記の記述で215年5月、西平・金城に勢力を張っていた麹演・蒋石により韓遂が殺されその首を曹操に送ってきたとあります。一方王脩伝に引く「魏略」によれば郭憲により韓遂が匿われた後に病死し、その首を送る功績者に載ることを郭憲は拒否したといいます。
2017-05-23 21:22:17韓遂が死んだ頃、河西四郡でも様々な勢力が割拠して事実上の無法地帯となっていました。武威郡では太守の張猛が韓遂に滅ぼされた後、同郡の人の顔俊が割拠していました。張掖郡でも龐淯の話で触れた通り太守が殺されており同郡の人の和鸞が勢力を保持していました。
2017-05-23 21:29:53張掖郡ではそれとは別に同郡の張進も反乱を起こしていました。酒泉郡では太守の徐揖を殺した黄一族の勢力を引き継いで黄華が割拠していました。また敦煌郡では以前にも触れた通り太守の不在を長史を代行して張恭が実権を握っています。西平郡は韓遂を殺した麴演が勢力を張っていました。
2017-05-23 21:32:56この状況の中で曹丕が曹操の跡を継ぐと涼州の再建に動き出し、情勢に大きな変化が訪れますが、この立役者となった名将が蘇則です。
2017-05-23 21:34:44少し話が前後するのですが、213年の正月に十四あった州を九つに整理しています。同年五月に曹操が魏公の位に登っておりこれに向けての布石とも言われていますが、雍州と涼州は雍州に統合されて長安も含めた広大な州となります。州刺史には張既が就任します。
2017-05-24 20:34:26涼州および雍州とはあまり関係ない政治的思惑が元となっている統合だと思うのですが、涼州刺史の韋康も雍州刺史の邯鄲商も殺されており馬超が追い払われた後の空白を埋める人事ともなったのでしょう。
2017-05-24 20:37:07曹操が劉備と漢中で戦っていた頃、河西四郡でも戦乱が続いており武威の勢力だった顔俊は曹操に母と子を人質として送り援軍を求めました。張既は顔俊は一時的に頼ろうとしているにすぎないことを見抜いており、「二虎競食の計」で彼らが争って弱るのを待つよう進言し、曹操はこれを取り上げました。
2017-05-24 20:56:32この張既の「二虎競食の計」は史記張儀列伝に見える話なのですが、三国演義で荀彧が呂布と劉備の離間を図るために曹操に進言した策としてのほうが三国志ファンにはおなじみでしょう。三国演義では荀彧は戦国の故事を持ち出さないのですが史記が本来の出典なのでしょうか。
2017-05-24 21:02:37史書では荀彧は曹操に二虎競食の計を進言しないので、張既の策が荀彧のものとして三国演義で転用されたのかもしれません。
2017-05-24 21:04:22張既の策の通り、張掖の勢力であった和鸞が顔俊を攻め滅ぼし、和鸞は武威の王秘に殺されます。このとき金城は韓遂の死後、蘇則が太守となり戦乱による荒廃からの復興を行っておりました。隴西郡にて李越が反乱を起こしますが蘇則はこれを平定します。
2017-05-24 21:10:48曹丕が曹操の跡を継ぐと、西平郡では麴演が護羌校尉を自称して反乱を起こしますがこれも蘇則が攻撃して降伏させます。これにより蘇則が護羌校尉に正式に任命されました。
2017-05-24 21:12:54また曹丕は新しく設置した涼州(河西四郡)刺史に鄒岐を任命し、同時に武威太守に毋丘興(毋丘倹の父親)、張掖太守に杜通、酒泉太守に辛機、敦煌太守に尹奉を任命して向かわせます。
2017-05-24 21:23:25ところが張掖では地元勢力の張進が杜通を捕え、酒泉では黄華は辛機を受け入れず、麴演も再び叛きます。刺史の鄒岐も着任できない有様でした。敦煌では張恭が子の張就を使者として中央に送り太守の任命を求め、尹奉が指名されましたが戦乱でたどり着けない状況でした。
2017-05-24 21:28:59武威太守の毋丘興も苦戦して金城にいた蘇則に救援を求めます。金城の豪族や羌族、そして部下の郝昭や魏平も援軍を出すことに最初は否定的でしたが蘇則は彼らを説得して毋丘興を救援して異民族を降伏させると、今度は毋丘興と共に張進を攻撃しました。
2017-05-24 21:32:40西平郡の麴演は反乱を起こすつもりで偽って兵を率いて蘇則を迎えますが、蘇則は麴演を会見の場で斬ります。そして再び張掖郡へ張進の攻撃に向かいました。
2017-05-24 21:37:13張進と黄華は敦煌郡を実効支配していた張恭を味方にしたいと思っていたので、太守任命を求めて張恭の子の張就が酒泉を通るとこれを抑留して脅迫して張恭を味方にしようとします。しかし張就は自分の身も顧みず父親に手紙を送って励まします。張恭は従弟の張華に酒泉を攻撃させ、尹奉を迎え入れました。
2017-05-24 21:41:31蘇則の攻撃を受けていた張進は黄華の援軍を待っていましたが、張恭が敵に回ったため黄華は援軍を出すことが出来ず、張進は蘇則に攻め滅ぼされました。黄華は味方を失い、蘇則に降伏したのでここで一時的に涼州は平穏を取り戻したのでした。
2017-05-24 21:44:46毋丘興についての小ネタ。214年に毋丘興は安定太守に任命され、任地に向かう際に曹操から「人を自分から羌族の元に送るとその者は欲張って羌族をそそのかして無理な要求をふっかけてくるからしてはならぬ」と伝えられましたが、毋丘興は曹操の命に反して校尉の范陵を羌族へ送ってしまいます。
2017-05-25 21:32:18曹操の予測通り、范陵は属国都尉にするよう要求してきました。曹操は自分が聖人だから予知できたわけではなく、単に経験が他の者よりあるからだと言いました。どちらかというと曹操の小ネタでしたね。毋丘興は安定太守から武威太守に移ったということになります。
2017-05-25 21:34:39