「織田信長は結局の所、天下統一のグランド・デザインを持ってたのか」問題再論~まとめ管理人氏を中心に
- gryphonjapan
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@yowaiteki まあ最終的には征夷大将軍、幕府開設に向かったとは言われています。例の「三職推任」も、実際には征夷大将軍のみを指したものだと、昨今は言われていますね
2018-03-11 23:50:15@1059kanri 実際のところはそういう流れになりそうだったのかもしれませんが、一番戸惑っていたのは、当の信長本人なのかもしれないと自分は思いますw
2018-03-11 23:52:31@1059kanri もしかすると本人もよくわからないうちにのし上がってよくわからないうちに周りに変に期待されてよくわからないままに動いてそろそろ辞めたい投げ出したいと思ってた頃に光秀が裏切って(ryって成り行きまかせ人生だったのかもw
2018-03-12 00:02:50@nonomaru116 あははw実際あの時期の信長ってわりと「もうやりきった」感、ありますね。出陣してもほとんど観光で済ませていたり
2018-03-12 00:04:37@1059kanri 信長は『副将軍』にならないっかて誘われましたが、これを固辞しましたが、これは周囲への反発を考慮したのか、傀儡にするための算段だったのでしょうか?
2018-03-12 00:14:38@horio19671 楽市は「市役」、楽座は「座役」という税金の免除であって、座の否定ではなく、むしろ座が参入しやすくする政策ですね
2018-03-12 00:15:55@kouchi85 単純に、急激に地位が上がることへの周囲の反発を懸念したと見たほうがいいと思います。三好政権ですら、将軍家相伴衆に入るという「地位の向上」の時に相当の反発があったらしく、それを知っていた以上軽々に受けられないでしょうね。
2018-03-12 00:18:55@mizunosyuhei それは勿論そうですが、周囲は信長が将軍就任することを期待していたフシがあったようですね。例の三職推任も、実際には将軍一択の推任だったとか
2018-03-12 00:21:06@1059kanri 気を使っていたと言うより、毛利・島津らが義昭を将軍と認めている以上、正統性では世襲の義昭には勝てないですし、足利将軍が在任中に昇進して兼務する官職が右大将なので(木下昌規氏の説)、頼朝の例があるとは言え、近年の例で既に右大将になっている信長にとっては余りメリットはなかったのでは?
2018-03-12 00:23:48@1059kanri 戎光祥出版さんの論集の『足利義晴』に所収の木下氏の論文では、義昭の父である義晴が突然将軍職を息子の義藤(義輝)に譲った事を不安視した後奈良天皇らが義晴を隠居させない為に右大将に任じて大御所として政務に関与させようとした例があり、信長の右大将就任もこれを意識していたとありますね。
2018-03-12 00:28:20@mizunosyuhei なるほど。だとすると右大将就任も朝廷主導で、任官に関して信長自身の主体性が本当に見えてきませんね。
2018-03-12 00:31:03@1059kanri 私個人の憶説ですが、既に「大御所」である信長は太政大臣となり、織田家の家督である信忠が天下平定の段階で将軍に就任するという、足利義満に近いコースを取っていたのではないか?と、思います。
2018-03-12 00:31:57@1059kanri むしろ、木下氏は右大将=大御所の官職(しかも、義昭の実父が近例)なので、征夷大将軍である義昭を牽制するために自らは右大将になったという解釈のようです。
2018-03-12 00:38:23@mizunosyuhei 手堅く行くとそれが一番でしょうね。信忠は後継者なのに何で秋田城介なんてマイナーな官位に就任したのかよくわかりませんがw
2018-03-12 00:39:57@1059kanri もはや 「わしがこの世を変える!」 というより 「公方様のために一肌脱いで幕府再建しようと思ったら、いつの間にかワシ自身が天下人に!? いったいどうなっちゃうの~!?」 的な、巻き込まれ型主人公のような……いや、そこでなんだかんだ勝ち進んでしまうあたり、非凡には違いないんでしょうけど
2018-03-12 01:00:18@1059kanri @ohiyow ちなみにこうした可能性はどなたが指摘されているのでしょう? 卒論で扱う分野に近いので非常に関心があります。
2018-03-12 08:46:09