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「はい」 歩いて行って開ける。外の霧が入ってくる。 「おたく。次藤さん?」 ぼさぼさの髪の少年、いや少女が見上げて来る。高校生、中学生ぐらいだろうか。子供がいないとよく分からない。 「そうだけど。どなた?」 ぶっきらぼうに尋ねる。すると向こうは上から下まで値踏みするようす。
2018-09-02 00:16:14よく考えるとまったく似ていない。顔以外は。 美しく穏やかな夕花にも、優しく人なつこい肇にも。 「三好都築っていうんですけど。お母さんに手紙くれたの、次藤さんですよね」 挑むように告げる。 「…お母さんて、三好夕花さん?」 「はぁ」 なぜ喧嘩腰なのか。自然、健作もつっけんどんになる。
2018-09-02 00:21:08「三好さんとは知り合いだけど。何?」 「すいません。うちのお母さん死んじゃったんで、これ」 包みに入った何かを押し付けて来る。 「死んだ…?」 「半年前に」 「半年前?だって俺が手紙をもらったのは…」 「じゃあ渡しましたんで」
2018-09-02 00:23:26ぼさぼさ髪の少女は霧の中に出ていく。恐れげもなく。 「待った。ちょっと待った」 靴をつっかけて追いかける。 「おい、三好さん。ちょっと。くそ。脚の早いガキだな」 あまりに濃い帳のせいで、三歩先もはっきりしない。
2018-09-02 00:25:29路面電車の警笛が聞こえる。懐かしい響きだ。肇と二人で駆けて飛び乗った。 「…三好さん!三好さん!おい!」 霧の中で、犬二匹とすれ違う。向こうは煙草をくわえたままぽかんとした顔をしていた。やはり東京都は勝手が違うらしい。ご苦労なことだった。
2018-09-02 00:28:02手首に震えがある。持ち上げると、音叉時計の針が震えている。いやケース全体が。 「なんだってんだ…さっきから」 霧のむこうに、何かが動いている。丸い棺桶をひきずるひょろりとした男。身長は二メートル半ぐらいある。編み笠をかぶっていて顔は見えない。
2018-09-02 00:30:24空を何かが滑空していく。鴉に似た、でも人間らしさもある鳴き声が響く。 そいつがものを落としていった。近づくと南瓜だ。ただし指が生えているように見える。 「…はあ?」
2018-09-02 00:31:56「うっ…うっ…」 誰かが泣いている。かがみこんだ女。三好の娘かと思って近づく。 「三好さん。もう一度お母さんのことを聞かせてくれ。死んだって」 「ぅっ…」 腕時計が震える。ぞくりとして後ずさる。 「ああああああ!!!!」
2018-09-02 00:33:29立ち上がって掴みかかって来る。顔全体が口。三重の歯が並んでいる。 「くそっ」 かわして転げる。二人のあいだを路面電車が超特急で走り抜けていく。窓に沢山の手が張り付いて、血をにじませているようだった。 震えのやまない音叉時計をもぎとるようにして外す。 「ふざけやがって」
2018-09-02 00:35:30気付くと霧は晴れていた。 健作は額にびっしょりかいた汗をぬぐった。 周囲を見回す。何事もないかのようだ。いや、騒ぎが起きている。 「飛び込みだって」 「路面電車に」
2018-09-02 00:38:00早足で事故現場に近づく。人だかりに犬二匹が見える。仕事熱心だ。 時計屋はかき分けて輪の中に入る。 死んでいるのは中年の女性だ。三好の娘ではない。 「…まったく」 そこでやっと手にした包みの重さを思い出す。強引に歩いて死体から遠ざかる。
2018-09-02 00:40:15ふと顔を上げて最初に目に飛び込んできた喫茶店に踏み込み、裏口を一瞥し、入り口の見える席に座って、包みを開ける。手袋をはめているのでもたつくがいつものことだ。
2018-09-02 00:41:55日記だ。かなりしっかりした装丁だった。 表紙を開いたところで、すぐに一枚の写真が落ちる。黄ばんだ白黒で、場所はどこだか分からない、掘り起こした石でできた釜のようなものを、人足と技師らしき男達が取り巻いている。ひとりに見覚えがあった。というか面影があった。三好夕花に似ている。
2018-09-02 00:44:07白皙美貌の青年。写真の裏をみると、日付があるがかすれて読めない。首を振って日記に戻る。 肇の字だった。思わず指でなぞる。 「健ちゃんへ。これを読んでいるということは、僕はもう生きていないとも思う」 ありがちなでだしだ。震えがくる。
2018-09-02 00:46:31「でもそんなことは起こらないから、好きなように書く」 時計屋は笑った。 「僕は健ちゃんが好きだと思う。小さい頃から好きだったと思う。夕花姉と同じくらい、もっと好きかもしれない。でもそれは一生言えないと思う」 今度は涙が出そうになる。
2018-09-02 00:49:00「健ちゃんの頭のよさそうなところが好き。あとどんどん面白いことを思いつくのが好き。喧嘩っぱやいところは嫌い。だらしないところは、好きかもしれない」 「なんでだよ」 ひとりで突っ込みながら読む。
2018-09-02 00:51:05「健ちゃんに誤解してほしくないのは、僕が健ちゃんに好きと言えないのは、健ちゃんにどう思われるか怖がってるからじゃないってこと」 「あっそ」 「健ちゃんは鐘の音が聞こえない人だから、だから巻き込みたくない。僕や夕花姉がいるところに」 「…鐘の音」 もう一度写真を見る。釜だ。
2018-09-02 00:52:44逆さにしてみる。鐘に見えなくもない。よく分からないので無視して日記に戻る。 「夕花姉もひょっとしたら少し健ちゃんが好きじゃないかって思うことがある。それを考えると胸が苦しくなる。でも僕と夕花姉はずっと一緒に育ったから、二人で同じ人を好きになってもしょうがないと思う」
2018-09-02 00:54:58「何言ってんだ肇ちゃん」 「今は健ちゃんと一緒にいられればそれでいい。いずれ時間が来てしまうとしても」 「時間…何の時間…」 喫茶店の扉が開いて、背広が二つ入って来る。 健作はゆるやかに日記を閉じて、まるで備え付けの本であるかのようにそばの本棚に置く。
2018-09-02 00:57:11