「関ヶ原の戦いは誇張されている」…としたら、誰が何のために「話を盛った」んだろう?
@1059kanri あ、そうですか? その後の奔走を見ると、静観していたとは少し…… まあ、資料があるかは分かりませんが
2019-06-01 20:20:52@1059kanri 毛利にとっても残念なのが宗家を仕切ってた秀元のパパ穂井田元清が隆景と相次いでなくなってます 隆景がたぶん吉川兄貴より以上に頼りにしてた四男 屋台骨を一気になくしたゆえに 輝元はリーダーシップをみせたかったのやも
2019-06-01 22:32:30@surisuri58911 関ヶ原の東軍との単独講和も、おそらく輝元が指示なり認可なり出しているんですよね。そのあたりふ含めて統率にはこだわるタイプだったように思います。
2019-06-01 22:39:48入手した。早速当方が想像する「9関ヶ原」のあらましとの突合を行う。 pic.twitter.com/fiWQ2HXoLu
2019-05-31 19:37:10①「五奉行五大老制」は大老の優越を意味しない。豊臣家の家政を司る五奉行が秀吉亡き豊臣家の実体であり大老署名は政令や受封の裏書連帯保証を卓越した武力を背景に行うものであった…概ね合致する。
2019-05-31 19:37:11②徳川前田とも生前から相談役として優遇され「五大老」時代にも優位が引き継がれているが実務者である「五奉行」の政務を権威付ける役割は他の大老と大きく変わるものではない。…概ね合致する。 ③私婚問題は徳川家康の自立志向の表れ…当方は自立というより自衛策発動ではないかと見ている。
2019-05-31 19:37:12④七将襲撃事件で石田を仕留めようと強く望んだのは七将であり家康はそのエネルギーの統制に細心の注意を払っていた…秀吉取立て大名の奉行反奉行分裂が抜き差しならない局面を迎えており徳川は一方に担がれたのか乗っかったのかだが。利害一致による党派結成という所迄は合致する。
2019-05-31 19:37:12家康の独裁的権力は、権力闘争の度重なる成果により権力を集中させた家康を、〜三奉行が支える構造である…秀吉死後の混乱は政局だという感想は以前から放流している。
2019-05-31 19:37:12上杉討伐は諸大名に軍役を課し、彼等を指揮することにより、自身の影響力を高めたいという思惑がらあり、征討は半ば回避不能で直江状による挑発が招いた事態では無い…概ね合致するが家康の独裁が軍事イベントを要するレベルの完成度に止まっていたとも言えるだろう。
2019-05-31 19:37:12石田の「西軍」合流時期は明確では無いが秀吉死後一貫して徳川を敵視していたわけではないし軍事蹶起の単独先行発案者ではあり得ない…そりゃそうだろとしか思えない。
2019-05-31 19:37:13織田秀信は付和雷同して「西軍」に加わったというより主体的に作戦参加していた…濃尾は織田、信州は真田の調略切取りに任せるのが「西軍」の戦略であり美濃進出した石田はその後方支援若しくは美濃の旧石田領回収が目的だったのではと考えてる。
2019-05-31 19:37:13当方の想像の範囲である部分も残るが暫くは当方が想定した関ヶ原物語は大きな改変を要することは無さそうだな…まあ歴史家諸氏の論文成書から得た感想を基に大筋逸脱しないように考察してるし当然といえば当然なんだが。
2019-05-31 19:37:13@urakkun26 最近の関ヶ原戦に至る過程に関する理解の方が、一貫した謀主を(西軍、東軍)ともに想定していた今までのストーリーより、各人が自分の都合で動いていた主体性が見えてきて、全体にスリリングな物語になって面白いです。
2019-05-31 19:52:15@Sz73B 結果を知っている現代人と異なり徳川毛利石田等最高幹部クラスでも戦略戦術レベルで霧の中に居た群像劇として再構築した方が面白いと思うんですよ。
2019-05-31 19:56:12ただブレを見せないのは黒田福島等徳川家康を盟主とすると決めた「東軍」諸侯ですね。彼等の動きが政治的にも軍事的にも当時を復元推定する鍵になると考えています。 twitter.com/urakkun26/stat…
2019-05-31 20:00:16@urakkun26 福島はともかく、黒田は七将襲撃事件辺りから積極的に動いてますね。黒田・藤堂が「豊臣子飼い大名の家康擁立派の中核だと思われます。黒田は親父如水も暗躍していますね。黒田のおかげで家康は天下とれたといってもよいかもしれない。この点、『黒田家譜』は盛り過ぎではなく、控えめなのではないか。
2019-06-01 02:11:48勢力均衡によって安定を図ったポスト秀吉豊臣政権が前田利家の死亡によって加速度的に変質していくのは「二大老」前田家の権威が利長に継承されなかったことによりバランスが崩れた事が大きな原因の一つだろう。職掌が属人的すぎるのが豊臣政権の弱点と見ているがおそらく大きく外してはいない。 twitter.com/urakkun26/stat…
2019-06-01 05:53:34家康と利家の寿命が逆転していたら徳川家と前田家の立場は逆転していただろうし、当主個人のカリスマが安全保障という脆弱性を持つ豊臣政権を維持する事に将来の不安を感じていたのは家康だけでなく当事者の利長や他の豊臣諸侯でもあったんじゃ無いか。
2019-06-01 05:53:34@urakkun26 おそらくそうなんですが、利家は家康と違って自らの指揮で大規模な合戦をした経験がほぼないため、家康のように最悪合戦が起こることも辞さない強引さで事を進めるようなことは避け、もっと調整的に動いて、諸侯が鼎立する頼朝没後の鎌倉幕府により近づいていたような気がしますね。
2019-06-01 06:14:33@Sz73B あり得ますね。その方針は羽柴家執行部である奉行衆とも共存の余地が大きいでしょうし前田と奉行衆が対立する局面が殆ど見られない一因でしょう。後は成人した秀頼が親政する様になった時どう変化するかですが…「大老」という職掌は徐々に解体されたかもしれないですね。
2019-06-01 06:21:329月15日の合戦についても決戦と呼べる代物では無かったと判明しつつあるし結果を覆す様な研究があり得ない以上、以前持ってた様な戦術シュミレーションゲーム的な分析への興味は急速に薄れて来ている。
2019-06-01 07:08:40