「関ヶ原の戦いは誇張されている」…としたら、誰が何のために「話を盛った」んだろう?
@urakkun26 @bookroad1 「七将」ではなく「徳川派」の起こした事件とみるべきです。「七将」という言葉自体がトリックなんですね。
2019-05-30 07:20:22@koueorihotaru @bookroad1 徳川家は我が家にこの様な貸しを与えてるので今更潰したら勿体ないですよという話ですかねぇ…金を借りた方の居直りみたいですね。長州が2国安堵状を掲げて大名行列してたのも同じ理屈かもしれないですね。
2019-05-30 07:21:39例の柿で有名な「細川家譜」も、「家譜」の設定では、「仲が悪い」ことになっている石田三成が、なんで家康暗殺計画なる大それた計画を細川忠興に打ち明けるか意味不明だし、その暗殺計画がばれても何の動きもないのも意味不明。
2019-05-30 07:24:22まあ、忠興の尽力を持ちまして、家康様は三成の凶刃からあやうく難を逃れましたとさ。さすが、藩祖忠興、すっばらしー、かっこいいー、と言いたいんだろうけど、「盛り過ぎ」で嘘のストーリである事がバレバレ。 koueorihotaru.hatenadiary.com/entry/2015/01/…
2019-05-30 07:28:37@urakkun26 @bookroad1 島津家は、家康公に逆らう意思はなく、かえって恩を受けて感謝していた。伏見城の入城を断られたので仕方なく西軍につかざるを得なかったので、決して家康様に叛意がある訳ではなかった。というストーリーが島津家が関ヶ原合戦後一貫して唱え続けたストーリーですね。
2019-05-30 07:31:36@koueorihotaru @bookroad1 反奉行派秀吉取り立て諸侯(長い…)と徳川家康の間には綿密な打ち合わせや明確な指揮系統は確立しなかったと見ており、上杉討伐の挙行はその問題解決に必要とされたイベントという一面が有ると考えています…が、「七将」は徳川派だと言うとそうとしか言えないでしょうね。
2019-05-30 07:35:43@urakkun26 @bookroad1 @koueorihotaru 「関ヶ原合戦を読む 慶長軍記 翻刻・解説」なら買いましたよ。小山評定や問鉄砲で知られるドラマチックな展開はこの軍記により定着し流布していった。関ヶ原合戦の史実と虚像、全体像の解明は全てここから始まるとの由。
2019-05-30 23:19:03関ヶ原で毛利輝元は西軍総大将に「祭り上げられた」なんて言われがちですが、そう成るには前段階が有り、それは例の前田利家死去後に起きた七将による石田三成襲撃事件でして、他の大老や諸大名がこの事件に何も出来ず手をこまねいている中、輝元は国元から軍勢を呼ぶなどして七将側を牽制し結果として
2019-06-01 19:03:24家康と輝元の交渉によってこの事件は収拾されました。これによって秀吉時代は決して重要視されていなかった輝元は大きな権威と求心力を得、一方、本来家康との「二大大老」であった前田家の利長は、自身の父親の死がきっかけだったにも拘らず何も出来ず、前田家自体の権威も大きく損ねたわけです。
2019-06-01 19:03:24七将襲撃事件は家康が豊臣体制における独裁権を確立する画期であると言われがちですが、一方で徳川家康に対抗する存在としての毛利輝元を大きく浮かび上がらせた事件でも有った、と言えると思います。
2019-06-01 19:03:25@shoshinn 毛利輝元の「無能」というのは、後世に、しかも毛利側のほうで形成された伝説ですね。それが一番都合が良かった。
2019-06-01 19:20:49@1059kanri 小早川隆景がいなくなったことも影響してそうですね 秀吉と西国諸侯と毛利を繋ぐ存在は間違いなく大きかったと存じます
2019-06-01 19:25:31@SL8fj2JcyiMX3RQ 実は前田利家の死は徳川家康にとっても痛恨事だった可能性があります。一般に言われていることと異なり、家康と利家は概ね協調して政務をとっていて、この二頭体制はかなり安定していたためです。
2019-06-01 20:13:15@1059kanri 好機だと思われがちですが、家康にとっては、乱世に戻らないようにする欠かせない要が亡くなったと思ったんですけ
2019-06-01 20:14:55@SL8fj2JcyiMX3RQ 家康の野望云々は別にしても、利家の死によって現実問題として体制が動揺した以上、家康としては否応なく自分中心の体制の再構成に着手せざるを得なくなった、という部分はあっただろうなと思っています。
2019-06-01 20:22:52