「関ヶ原の戦いは誇張されている」…としたら、誰が何のために「話を盛った」んだろう?
@urakkun26 普通だと奉行派(四奉行を石田派といってよいか疑問です)に成り代わり、自分(黒田)達が「新奉行」になる!という発想になりますが、さすがに中央権力の恐ろしさを知っている如水、下手に中央政権の要職につくと今度は自分達が家康から排除の対象とされると考え、あえて中央権力への野心は見せない。
2019-06-01 07:03:47@urakkun26 黒田・藤堂以外の人間達がどう考えていたかは不明ですが、少なくとも黒田親子と藤堂高虎は、奉行派の仕切る豊臣公儀ではなく、徳川家康及び家康家臣の仕切る公儀(豊臣公儀でなくてすらよい)を志向していた訳で、公儀を仕切るのが自分達も含めて豊臣子飼い大名であるべきと考えていない。
2019-06-01 07:08:49@koueorihotaru 秀吉から預けられた領地や政権内序列を既得権として世襲化固定したいという欲求で反奉行派は一致していた様に思います。ラジカルさの程度が違ったという事でしょう。藤堂にそれが極端に現れたのも彼の不安定な前半生を考えると無理もないのではないかと。
2019-06-01 07:16:25関ヶ原後の黒田細川の険悪な関係も、領地獲得の後は政権内序列で敵視しあったのが背景にあるんじゃないですかねぇ。 twitter.com/urakkun26/stat…
2019-06-01 07:19:56蔚山城の戦いの戦後処理が奉行反奉行派の決定的な決裂因子になったのは、奉行衆指導体制のままでは加藤蜂須賀らが敗戦を招いた戦犯としていつか処分される可能性があると恐怖を持ってしまったのが原因じゃないですかねぇ。 twitter.com/urakkun26/stat…
2019-06-01 07:29:29@urakkun26 なかなか鋭い視点かと思われます。徳川政権下でも大名は鉢植えで転封・改易もありましたが、当時の感覚では大名は鉢植えを広言している秀吉のスタッフが運営している豊臣公儀と、既得権を保証してくれそうな新公儀とでは、期待度が高いのは後者になるでしょう。
2019-06-01 07:25:33@koueorihotaru 累代の主従関係という武士の文化を持っていた徳川家に成り上がり者の期待が集まったんじゃないですかねぇ。
2019-06-01 07:33:48秀吉が死ぬ直前に羽柴秀秋を減転封したのはまずかったんじゃないですかね…羽柴一門筆頭でも領地が保証されていないという事実をアノ時期に突きつけられたらそれ以下の諸侯がどれだけの不安を持つか想像できます。 twitter.com/urakkun26/stat…
2019-06-01 07:42:31@urakkun26 豊臣秀吉というのは部下に対して極めてドライなので、彼のカリスマが消滅すれば、統制がきかなくなるのも仕方がない。奉行衆が何か懐柔しようとすると、秀吉の遺言違反になるおそれがあり、奉行衆が自由に行える余地は少なかったといえます。
2019-06-01 07:36:44