歴史系雑語り・戦国期南部氏の三戸・九戸の台頭の果てと一戸氏との関係

戦国時代の三戸南部氏・九戸氏は八戸氏の退潮に伴い台頭し、そこに一戸氏が大きく絡んでいた、と解釈できるんじゃないか、という感じの話です。
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帆船ハッカ @kotosakikotoko

仮説の仮説に過ぎないのだけれど、九戸氏の興亡って、戦国最初期における三戸・一戸・九戸の勢力拡大競争に負けたから、という見通しは可能かも、とかさっき思い付いた。

2017-12-02 20:03:01
帆船ハッカ @kotosakikotoko

八戸氏の退潮に伴って勢力を伸ばしたのは三戸・一戸・九戸だと思ってて、九戸はその後発故の不利を覆すために、強引な勢力拡大を進めてそれ故に周囲と軋轢を繰り返し最終的に破滅した新興勢力、と見るとまた違う『九戸氏』の姿が見れるよ。

2019-09-08 23:37:23
帆船ハッカ @kotosakikotoko

15世紀半ばに蠣崎蔵人を下して下北半島を領有した八戸南部氏だけどれも、その後小野寺氏の反攻によって出羽の所領を喪失し、さらに時期は不明だけれども平舘など岩手郡からも撤退している。代わって岩手郡に進出したのが一戸氏で、さらに1540年に岩手郡に再進出したのが三戸の石川高信。

2020-02-28 23:27:54
帆船ハッカ @kotosakikotoko

15世紀末~16世紀初頭の三戸南部氏は、既に八戸の北部を扼する形で五戸まで勢力を広げていて、南部信義が修理大夫を名乗るなど、官位の面でも図抜けた存在になろうとしていた。 同じ時期に九戸氏は本領の雪谷川流域から飛び出て二戸を領し、勢力拡大の契機を掴むのだけど、ここからが分かれ道になる。

2017-12-02 20:11:10
帆船ハッカ @kotosakikotoko

九戸が新たに得た二戸は、北を三戸南部氏、西に四戸氏・浄法寺氏、南に一戸氏が勢力を張り、容易に勢力拡大が出来る場所ではなかった。じゃあどうしたかというと、四戸や浄法寺氏とは血縁・友好関係を築きながら、八戸氏の分族久慈氏と濃密な血縁関係を結んでいくのだけど、一戸氏が立ちふさがる。

2017-12-02 20:21:13
帆船ハッカ @kotosakikotoko

一戸氏は糠部一戸を根拠として、多くの分族を閉伊・津軽・岩手・鹿角に展開させ、その影響力を広げており、戦国末期はパッとしないけど糠部における一大勢力の一つとみて差支えない。その一戸氏は九戸氏と対立した様子が見られ、九戸氏は一戸の縄張の姉帯や根曽利などに城を構えている。

2017-12-02 20:29:03
帆船ハッカ @kotosakikotoko

15世紀前半に三戸南部氏は安信の弟達を要地に配置して領域支配を強化しつつ、一戸氏と共に鹿角や岩手に進出する。それは九戸氏にとっては勢力を伸張させる道が両氏によって押さえられていった事を意味する。九戸氏の婚姻政策は、逆を言えば『それしか取りえる手段が無かった』事の反映でもあると思う。

2017-12-02 20:34:13
帆船ハッカ @kotosakikotoko

あ、間違えてる。16世紀前半だ。

2020-02-27 23:13:55
帆船ハッカ @kotosakikotoko

九戸氏が勢力を広めるには周囲を取り込んでいくしかない。四戸氏・久慈氏との婚姻や、中小諸氏の一族から家臣を取った辺りからそれは見て取れる。ただしそれは周辺諸氏の既得権に懐を突っ込む強引なものにならざるを得ず、事実一戸氏とは対立を繰り返し、その頂点が一戸政連暗殺事件として結実する。

2017-12-02 20:42:54
帆船ハッカ @kotosakikotoko

天正9年の平館信濃による、一戸政連・出羽親子暗殺事件は、一戸氏という南部郡中を構成する政治勢力の崩壊劇であるんだけど、同時に九戸政実が平館という岩手郡にも勢力を伸ばしていた事にも注目すると、色々見えるものが違ってくると思ったり。

2019-09-08 23:28:10
帆船ハッカ @kotosakikotoko

九戸氏、不来方福士氏や葛巻氏と縁戚関係を結び、さらに姉帯氏は岩手郡に領地を持っていたともされていて、これって一戸・三戸が勢力を頒布する岩手郡における対一戸切り崩しの一環とも見れるし、周囲を包囲されて勢力拡大がままならない九戸氏が絶えず出口を求めた苦闘の姿とも見れる。

2019-09-08 23:28:10
帆船ハッカ @kotosakikotoko

一方、岩手郡・閉伊郡において一戸氏と三戸氏は岩手郡進出を決めた石川高信の代から協力関係が見て取れ、それは信直の代まで続くわけで、この一戸・三戸の共同と九戸との勢力拡大に伴う対立というのは戦国期南部史における底流の一つと言ってもいいと思っている。

2019-09-08 23:32:07
帆船ハッカ @kotosakikotoko

で、一戸を潰し、九戸に道が開ける。婚姻関係や同盟関係が結実し、九戸氏は糠部においても有数の勢力に成長したと言える。 しかし一方の三戸氏も糠部第一の巨大勢力に成長しており、さらに退潮したとはいえ未だ八戸を中心に地歩を築いた八戸氏と同盟を結ぶ。

2017-12-02 20:54:55
帆船ハッカ @kotosakikotoko

これが九戸戦時において三戸・八戸同盟vs九戸・櫛引(四戸)・久慈・七戸同盟という構図になるのだけれども、九戸側の方がこの戦争において有意であった(さらに遡って三戸より優勢な勢力であった)と語られるのは、七戸氏が八戸氏との連携を断ち切り九戸側についた点が大きいだろうなぁ、と思う。

2017-12-02 21:00:52
帆船ハッカ @kotosakikotoko

もし七戸氏が三戸側だった場合、北部からの脅威がほぼ取り除かれる。三城攻撃のような攻勢も恐らく出来ず、三戸南部氏は南に集中できる。 とまれ、ここに至って三戸と九戸は勢力拡大競争において拮抗する勢力になったのだけれども、ここでタイムアップ。怒涛のごとき豊臣軍の侵攻はいわずもがな。

2017-12-02 21:11:38
帆船ハッカ @kotosakikotoko

九戸戦直前において、三戸と九戸の勢力圏が拮抗してるか、ってーとそれは無い、とは言える。この時点に至っても、三戸の方がその影響力においても広さにおいても九戸を圧倒している。それを覆す寸前にまで至ったのは、九戸が営々築き上げてきた糠部内の人脈と、奥羽仕置の強引な『京儀』だったと思う。

2017-12-02 21:15:25
帆船ハッカ @kotosakikotoko

三戸南部氏による連合体制が崩れつつあったとはいえ、あの『京儀』がなければ九戸戦のような大規模な争乱にはならなかったと思うのよね。それくらい雑な仕置だったのがね……。 あ、あと津軽問題な。大浦為信による挙兵(天正17年説をとる)が南部郡中崩壊の原因のひとつになった。

2017-12-02 21:20:35
帆船ハッカ @kotosakikotoko

戦国期糠部というのは、先に地歩を築いていった三戸氏と一戸氏を追いかける形で九戸氏が周辺との融和と対立を繰り返し、九戸が一戸を下して戦国の最末期になってようやく三戸氏と肩を並べる勢力になった所で異勢力が現れて九戸氏を圧潰させるという筋になるよねという。このプロット出した奴出てこい。

2017-12-02 21:26:25
帆船ハッカ @kotosakikotoko

何度でも言うけど、九戸氏のライバルは三戸氏ではありません、一戸氏です。一戸滅ぼしてから三戸です。

2017-12-02 21:31:23
帆船ハッカ @kotosakikotoko

三戸氏は一戸氏との協力の下で岩手郡(それから恐らく鹿角郡も)へ進出しているので、間違いなくこの両者の繋がりは三戸の勢力伸長にとって多大な貢献をしたのだけれども、九戸氏にとっては喉元に刺さったトゲが膨らんで自分の喉元をどんどん塞いでいくような感じ。

2017-12-02 21:37:45
帆船ハッカ @kotosakikotoko

三戸、というより高信と提携関係にあった一戸宗家が滅亡しなければ、信直って同盟相手の八戸家に傾注する必要も無く、九戸に対してももう少し対応できうる選択肢が増えたんじゃねえかなぁ、と思ってる。逆に郡中のしがらみに絡め取られる可能性もあるだろうけど。

2017-08-21 17:19:43
帆船ハッカ @kotosakikotoko

さらに言えば、三戸と九戸だけを見ていても色々取りこぼす。八戸位はまあよく言われるけど、他にも七戸・櫛引・一戸なども同じくらい大きい政治勢力であり、糠部郡内の政治決定に関わっていたことを勘案して動向見てかないと、あの当時の両者の『対立』って読み解けないと思っている。

2019-05-23 23:50:02