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「中世オーストリア文学は存在するのか?」という質問に答えてみました

「中世オーストリア文学ってあるんですかね?」と質問されたので、「中世オーストリア」「オーストリア文学」の定義を踏まえつつ、「中世オーストリア文学」がどんなものであったか、だれがどんなところで「中世オーストリア文学」を楽しんでいたかなどをまとめました。
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Hyoro@ウィーン @hyoroWien

「中世オーストリア文学」は存在するのか?というご質問を頂いたので、答えてみます。まずは「中世オーストリア」とは何か、という話から解きほぐしていきます。なにせ5~15世紀の長期にわたる時期な上、オーストリアの範囲も定まらない時代です。けど、そんな時代にも確かに文学はありました。 twitter.com/tomoshibi6o6o/…

2020-02-02 09:41:37
はくえー🔱【各国の王侯情報紹介】from:西方元老院 @tomoshibi6o6o

@hyoroWien hyoroさんこんにちは、ちょっと気になり質問したいのですがお忙しいところでしたらスルーして大丈夫です。 ふとタイムライン見てて思ったんですが、中世オーストリア文学ってあるんですかね…? 学校とかで、中世の文学(日本だと源氏物語とかでしょうか)を教える際にどうしてるのかなと。

2020-02-01 19:08:52
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

まず、中世の区分から。基本は、10世紀までが中世初期(スタート時期は諸説あるため後述)、11-13世紀(バーベンベルク家)が中世中期、15世紀(ハプスブルク家。マキシミリアンまで)が中世後期とされています。

2020-02-02 09:41:38
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

3世紀から始まった民族大移動で、東ゴート族、アレマン人、バイエルン人、スラブ人、アヴァール人がやって来ます。ウィーンは、420/30年にローマ人が去った後、9/10世紀頃まで、人が住んだ形跡が極めて少なくなります。中世初期は、民族大移動が落ち着く5,6世紀から10世紀までを指しますが、→

2020-02-02 09:41:38
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

何を持って「落ち着いた」とするかは学者によって意見が分かれます。4-5世紀のゴート族時代(ローマ時代の終焉)の後、6-8世紀にスラブ人/アヴァール人とバイエルン人に国が二分されますが、この時代の扱いが諸説あります。この次の8-10世紀バイエルン公国の時代は、明確に中世初期に分類されます。

2020-02-02 09:41:39
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

この民族大移動/中世最初期の時代が、オーストリアの国の核になる部分を形成したので、ここから説明します。6世紀、西からバイエルン人が、東からアヴァール人に追いやられたスラブ人がやって来て、国は2分されます。この境界線は、Freistadt, Linz/Enns, ザルツブルク, Lesachtal。ざっくり言うと、→

2020-02-02 09:41:39
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

アルプスの東西に分かれました。この地域は、スラブ人とアヴァール人が取り合いを重ねたので、西のバイエルン人地域の対比させ、便宜上「スラブ人/アヴァール人地域」とします。これとは別に、ケルンテンにはスラブ人が、フォーアールベルクにはアレマン人が住んでいました。

2020-02-02 09:41:39
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

この状態が250年ほど続きますが、このバイエルン人VSスラブ人/アヴァール人時代を、民族大移動後期とみなすか、中世初期に含めるかが揺れています。個人的には中世初期でいいんじゃないかなーという気もしますが。。(アヴァール人自体、民族大移動のフン族の後から出てきたわけだし)

2020-02-02 09:41:40
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

791年、カール大帝がアヴァール人討伐を始めます。フランク王国とバイエルン公国の関係は複雑ですが、この時は手を組んでいたので、実質、バイエルン人が東に侵攻してきた感じです。アヴァール人は討伐され、アヴァール人地域(Enns川、Raab川、Drau川の間の地域)はバイエルン公国支配下に入り、→

2020-02-02 09:41:40
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

Awarenmark(Grenzmark。アヴァール人の辺境地域)となり、キリスト教化されます。異教徒アヴァール人は、この地域内の東部(Carnuntumからハンガリーにかけて)に封ぜられます。8世紀後半には、ケルンテンもバイエルン公国下に入り、現オーストリアのほとんどの地域は、バイエルン公国下になります。

2020-02-02 09:41:40
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

このバイエルン公国の時代までが、中世初期の区分です。この時期、ウィーンはアヴァール人/スラブ人の支配下で、ローマ時代のインフラも廃墟と化していたので、ほぼ町の形をしていなかったとされています。次からが、中世中期となります。

2020-02-02 09:41:41
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

ここまで書いて考えたこと。Ennsが「オーストリア最古の町」を名乗ってて、何を大袈裟なwって思ってたけど、この中世初期の地理上の重要性(実際その前はローマの街だったし)は、今思うよりずっと高かったのね。twitter.com/hyoroWien/stat…

2020-02-02 10:08:06
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

「オーストリア最古の町」エンス。何を持って「最古の町」とするのか疑問だったが、この街の場合は、バーベンベルク家のレオポルト6世から、Stadtrechtsurkunde(町としての権利の証明書)が授与されたのが、1212年と最古。しかし、「最古の町」の定義が色々あることから、「最古の町」も複数ある。 pic.twitter.com/QPt1RtNreF

2019-04-20 15:18:56
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

あと、オーストリアの原住民はケルト人なわけだけど、この人たちはなぜか、ローマ人が去った後、バイエルン人、スラブ人、アヴァール人が来ても、抵抗は少なかった。けど多分、民族的に取って代わられた訳ではなく、ずっと居たんだと思う(スラブ系言語が残ったケルンテンを除いて)。

2020-02-02 10:08:07
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

まあ、ずっと居たというか、徐々に異民族と混じっていった感じか。ローマ時代2世紀頃にはキリスト教が入ってきてたらしいが、その後アヴァール人でまたキリスト教は駆逐されたのかな。異教徒と言うとケルト人を指すと思ってたけど、アヴァール人も異教徒だ。

2020-02-02 10:08:08
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

この中世初期は、文字に残っているものが少ないので、なかなか時代の様子がイメージしにくいけど、中世中期になったら急に色々史料が出てくる。ほとんどの中世の古城は、12世紀頃に「初めて史料で言及」される。それ以前からあったかもしれないし、なかったかもしれない。

2020-02-02 10:12:24
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

少し追記。アヴァール人って誰って話ですが、これはフン族のあとでハンガリーを治め、パンノニア(オーストリア東部)に住み着いた戦闘遊牧民族。モンゴロイド系と言われていて、あぶみを欧州に持ち込んだことで、戦闘を有利に進めた。今のカフカスにいるアヴァール人とは別物とされている。

2020-02-02 17:42:49
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

それでは、オーストリア中世中期の話をします。ここからはまあ記録もあるし、キリスト教化されてるし、大国が絡んでるので、いわゆる上記のような、異民族が群雄割拠して、記録もないという意味での、「暗黒時代」ではなくなって、スッキリしてきます。

2020-02-02 23:28:28
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

中世前期に当たる8-10世紀にかけて、オーストリア全土は、バイエルン公国下に置かれますが、9世紀にはマジャール人がまた元アヴァール人の地域に攻めてきたり、オットー一世が撃退したりして、ゴタゴタします。最終的には、フランク王国=神聖ローマ帝国と、傘下のバイエルン公国が、→

2020-02-02 23:28:28
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

元アヴァール人の土地(現NÖ州を中心とする平野部)と、元スラブ人の土地(ケルンテン)を従え、オーストリアの分割時代は終わります。下の図は、10世紀、バイエルン公国最大版図。 pic.twitter.com/n92wlNZfII

2020-02-02 23:28:33
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Hyoro@ウィーン @hyoroWien

ここで、976年に転機がきます。神聖ローマ皇帝オットー2世は、バイエルン公国の縮小を推し進め、元アヴァール人の土地をバーベンベルク家のルイトポルトに与えて辺境伯にし、ケルンテンも切り離します。このバーベンベルク家に与えた土地が、最初に「オーストリア」として記録された地域です。

2020-02-02 23:28:33
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

この「原オーストリア」といえる地域は、元々アヴァール人の土地、つまりざっくり言うとアルプス以東~パンノニア平原にかけてで、ザルツブルク以西や、チロル、フォーアールベルク、ケルンテンは含みません。ウィーンからすると、「山の方は文化圏が違うな」と感じるのも、このせいなのかも。

2020-02-02 23:28:34
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

また、この原オーストリアの地域は、これ以降大きな民族移動は経験しないので、この人たちが現在のオーストリア人の、民族的な起源になるのではと考えられます。つまり、原住民ケルト人+スラブ人+マジャール人+バイエルン人(アヴァール人は一地域に封じ込められたため、少なそう)。

2020-02-02 23:28:34
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

この中でも、スラブ人はケルンテンやボヘミアの方が濃いし、マジャール人はハンガリーにかなり追い出されたので、現在のオーストリアがバイエルンから来たドイツ語を話し、ケルトの風習を残してるのは、歴史的に言っても符合する。(←これは私の自説ですw)

2020-02-02 23:28:35
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

さて、こんな「原オーストリア」の地域に名前がつくのが、996年。オットー3世がFreisingの司教に土地を寄進した文書に、「人々がOstarrichiと呼ぶ地」と記されています。この名は、Awarenmarkの別名Marcha Orientalis(東の辺境の地)を指し、「東の領土」を意味します。

2020-02-02 23:28:35
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

それ以前から、この地域は、Osterlant「東の地」と呼ばれていて、そのラテン語形Austriaは、12世紀には既に使われていました。何はともあれ、民族が入り乱れて、混沌としていたこの「原オーストリア」が、やっと名前と形を持ったのが、中世中期の始まりの時期になります。

2020-02-02 23:28:35
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

こうしてやっと実体ができてきた感のあるオーストリアですが、この地を任されたバーベンベルク家は、当初辺境伯(Markgraf)でした。それが、ハインリヒ・ヤソミゴットの時代に公位(Herzog)となり、着実に国力を上げていきます。

2020-02-02 23:28:36
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