編集部イチオシ

「中世オーストリア文学は存在するのか?」という質問に答えてみました

「中世オーストリア文学ってあるんですかね?」と質問されたので、「中世オーストリア」「オーストリア文学」の定義を踏まえつつ、「中世オーストリア文学」がどんなものであったか、だれがどんなところで「中世オーストリア文学」を楽しんでいたかなどをまとめました。
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Hyoro@ウィーン @hyoroWien

バーベンベルク時代(中世中期)については、以前ここでまとめたので、今回はリンクを貼るに留めます。twitter.com/hyoroWien/stat…

2020-02-02 23:35:11
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

バーベンベルク家が辺境伯としてウィーン周辺を支配してからは、ウィーンは地の利を生かし、交易都市として再び栄え始める。オーストリアの元となるOstarrichiの呼称もこの頃に記録に残っている。ローマの後で5世紀くらい暗黒時代だったウィーンに、再び光がさす。

2018-01-08 18:01:23
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

バーベンベルク家の時代については軽く触れて、次に行こうかと思ったけど、せっかくなので、オーストリアにやってきたルイトポルトから聖人になったレオポルト3世までの、バーベンベルク前半の人たちをまとめておきます。基本、バーベンベルク前期の皆さんは、神聖ローマ皇帝の忠臣って感じです。

2020-02-03 06:58:07
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

ルイトポルト→息子Heinrich I→弟Adalbert(Leitha, March, Tayaに領土拡大)→甥Ernstと来て、レオポルト二世の時に異変が起こる。叙任権闘争で、レオポルト2世は、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世ではなく、パッサウ司教とローマ教皇側に付くが、辺境伯の地位は保持。

2020-02-03 06:58:07
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

次のレオポルト3世は、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世にとって変わろうとする息子ハインリヒ5世を支持し、この娘と結婚する。神聖ローマ皇帝の娘と結婚したことで、オーストリアの地位はぐっと上がり、レオポルト3世以降、良い息子孫に恵まれたため、オーストリアは存在感を増していく。

2020-02-03 06:58:07
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

レオポルト3世(聖レオポルト)以降、バーベンベルク家の終わりまでは、ここでまとめました。少し文学の話も出てきます(話がなかなか文学に辿り着かないw)twitter.com/hyoroWien/stat…

2020-02-03 06:58:08
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

自分メモ的追記。 レオポルト3世(聖レオポルト、Markgraf) レオポルト4世(聖レオポルトの息子でハインリヒの弟) ハインリヒ・ヤソミゴット(聖レオポルトの息子で弟の後即位。大公Herzog。ウィーン推し) レオポルト5世(ヤソミゴットの息子。リチャード王人質、破門) twitter.com/tomoshibi6o6o/…

2018-08-25 04:37:40
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

バーベンベルク家からハプスブルク家に変わった経緯はこちら。ツリーになってないので、ここからいくつか繋げておきます。 twitter.com/hyoroWien/stat…

2020-02-03 06:58:08
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

記事を書くのは、オトカル2世とバーベンベルク家のマルガレーテが結婚式を挙げた城について。バーベンベルク家はウィーンを発展させ、神聖ローマ帝国の盾として10-13世紀までハンガリーの矢面に立ってた。シュテファン大聖堂、メルク、クロスターノイブルクなども作った。

2014-06-19 08:40:23
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

記事を書くのは、オトカル2世とバーベンベルク家のマルガレーテが結婚式を挙げた城について。バーベンベルク家はウィーンを発展させ、神聖ローマ帝国の盾として10-13世紀までハンガリーの矢面に立ってた。シュテファン大聖堂、メルク、クロスターノイブルクなども作った。

2014-06-19 08:40:23
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

オタカル2世は、オーストリアが欲しくて、オーストリア公バーベルベルク家最後の生き残りで20歳以上年上のマルガレーテと結婚し、まんまとオーストリア公に収まったら離婚する。そんなイケイケなオタカル2世は、次に神聖ローマ皇帝に立候補するが、選帝公に嫌われ、皇位は弱小ルドルフ一世へ。

2014-06-19 08:17:51
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

そんな健気(?)なバーベンベルク家なのに、最後は40代のマルガレーテがイケイケ20代のオトカル2世と政略結婚させられた挙句、オーストリアだけ取られて捨てられるという、なんとも寂しい末路。(続きはリンク先のツイートへ)twitter.com/hyoroWien/stat…

2020-02-03 07:04:16
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

しかし、一見弱小なルドルフ一世はやり手だった!イケイケオトカル2世をウィーン郊外のMarchfeldで倒し、オーストリアを手に入れ、スイスの片田舎から花の都ウィーンデビュー♪ルドルフ一世が爪を隠した能ある鷹だったから、ハプスブルク家がオーストリアを治めることができたんだね。

2014-06-19 08:23:15
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

バーベンベルク家の時代は、面白いことが多すぎて、まだまだ語りたいけど、いくつか重要エピソードを紹介しておきます。まずは、ハインリヒ・ヤソミゴットがやった、シュテファン大聖堂建設の裏の政治取引について。twitter.com/hyoroWien/stat…

2020-02-03 07:09:27
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

当初まだ教会だったシュテファン大聖堂は、パッサウの司教座の傘下という位置づけだったが、ヤソミゴットは既に、格上げを目論み、教会としては格段に大きなサイズで作らせた。ここから600年にわたり、シュテファン大聖堂は増築を重ね、権威を増していく。

2018-01-08 18:03:04
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

あとは、十字軍とリチャード獅子心王とヤソミゴットの息子について。リチャード獅子心王といえば、センガーブロンデルは吟遊詩人なので、文学と少し関係ある! twitter.com/hyoroWien/stat…

2020-02-03 07:09:27
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

オーストリア公レオポルト5世について追記。バーベンベルク家ハインリヒ・ヤソミゴットの息子。第三回十字軍に参加。戦果を誇り自軍の旗を立てたら、リチャードの部下に引きずり下ろされたので、恨みに思って帰国途上のリチャードをウィーンのErdbergで捕まえさせ、デュルンシュタインに幽閉した。

2018-08-19 06:36:58
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

さて、これで、とりあえず中世中期、バーベンベルクの時代の話は終わりにしておきます(キリがないので w)。バーベンベルクの時代は、11-13世紀。オトカーとルドルフ一世の話ももう紹介したし、後は、中世後期、ハプスブルク家の時代!マキシミリアンまでもうちょっと!(あと200年w)

2020-02-03 09:02:52
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

ルドルフ一世は神聖ローマ皇帝(正確にはローマ王まで)に選出され、その息子アルブレヒト一世と、更に息子フリードリヒ1世(3世)も神聖ローマ皇帝に選ばれはしましたが、実際は世襲ではなく、間に別の人を挟む形だったので、連続性はありませんでした。

2020-02-03 09:02:53
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

その後100年間、ハプスブルク家は「皇位から遠ざかる」とよく言われますが、何をしてたかと言うと、内輪もめしてましたw ハプスブルク家は基本共同統治体制をとり、君主が二人いる時代が続き、更に国を分割統治までしてたので、1人で国土を統治したのはルドルフ一世と四世とマキシミリアンくらい。

2020-02-03 09:02:53
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

なんて言うかさ、ルドルフ一世も四世も、後世の人から無能説とか言われてるけど、内輪もめしてた他の君主と比べたら、めちゃくちゃ能力高いんだよね。。ルドルフ四世なんて、大公を僭称したとか言うけど、後になってめちゃくちゃ効果的だったし、チロルを手に入れたり、たくさん仕事してる。

2020-02-03 09:02:54
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

ルドルフ四世が子供を残さなかったので、国は三分割されます(まずはルドルフの弟二人に、その後片方がまた分割)。NOe&OOe州、ケルンテン&シュタイヤーマルク、チロルの3分割です。しかしこれが上手いこと、跡継ぎがいなかったり、自滅したりで、フリードリヒ5世の手元に転がり込んできます。

2020-02-03 09:02:54
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

元々フリードリヒ5世は、3分割された1つをまた兄弟と分けねばならず、たった1/6しか治められないはずが、チロル以外の2/3を手中に収め、更に神聖ローマ皇帝にまでなってしまいます。大公位も確実なものになったので、司教の叙任権を手に入れ、シュテファン大聖堂が独立した司教座になります。

2020-02-03 09:02:55
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

1/6統治からの、ほぼ統一&神聖ローマ皇帝&ウィーンの司教座は、フリードリヒ5世(4世)の逆転満塁ホームランみたいなもので、こうやってダメダメ時代を見てると、対比でびっくりする。そしてその息子が、満を持して登場する、「最後の騎士」マキシミリアン。

2020-02-03 09:02:55
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

マキシミリアンの時に、分割統治の最後の1/3のチロルが、後継者不足で戻ってきて、またオーストリアは元の形に戻ります。中世は、マキシミリアンの即位や結婚までとされることが多いので、マキシミリアンのことはここでは触れませんが、ハプスブルク初期=中世後期は、なかなかカオスでしたねw

2020-02-03 09:02:56
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

「中世オーストリアとは」という話が終わったので、やっと「中世オーストリア文学とは」という話に行けると思ったんですが、その前に「オーストリア文学とは」という壁にぶち当たります。「オーストリア文学とは、オーストリアで書かれたドイツ語の文学」という定義は、実に穴だらけです。

2020-02-03 09:23:20
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

「オーストリア文学」に、次のものが含まれるか、考えてみてください。 ・ハプスブルク帝国下のチェコで、ドイツ語で書かれた文学(カフカ) ・ウィーンでハプスブルク時代に、墺人が独語で書いた文学だが、作者が「私の書くのは墺文学ではなくドイツ文学だ」と言い張るもの(ホフマンシュタール)

2020-02-03 09:23:20
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

・原オーストリアの地域で、中世の共通語であるラテン語で書かれた文学 ・どの国出身かもわからない、中世の旅する吟遊詩人が残した詩 ・現在南チロル(墺国が主権を主張しているイタリア領)でドイツ語で書かれた文学 国や言語、民族の概念が固まったのは、民族主義運動の頃からで、→

2020-02-03 09:23:21
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

それ以前の方が遥かに長い年月、国境は変わり、民族は移動し、少数民族語の文学が生まれ、周辺諸国の影響を受けてきました。中世に限ってみても、どこまでを「オーストリア文学」とするのかは、様々な議論があることも、忘れてはならないでしょう。

2020-02-03 09:23:21
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

@tomoshibi6o6o (やっと次から「中世オーストリア文学」の話ができますー!ニーベルンゲンの話ができるので楽しみw)

2020-02-03 19:08:14