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「中世オーストリア文学は存在するのか?」という質問に答えてみました

「中世オーストリア文学ってあるんですかね?」と質問されたので、「中世オーストリア」「オーストリア文学」の定義を踏まえつつ、「中世オーストリア文学」がどんなものであったか、だれがどんなところで「中世オーストリア文学」を楽しんでいたかなどをまとめました。
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Hyoro@ウィーン @hyoroWien

6-10世紀は、ほぼ史料が残っていないことからまさに「暗黒時代」ですが、文学に関してもほとんど書かれたものは残っていません。僅かに残る書物は、修道院に残る宗教的なものですが、口承での英雄物語や恋愛や追悼の詩などはあったとされています。8世紀になると、ラテン語の宗教逸話が、→

2020-02-04 09:32:12
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

一般人にもわかりやすい平易なドイツ語に訳されたもの(聖母マリアのお話、悔い改めのお話)などがあります。 11世紀(中世中期、バーベンベルク時代)になると、作者不明の詩のアンソロジーなどがいつか見つかり、ザルツブルクやメルクなどの修道院でも、文学的作品が残されています。

2020-02-04 09:32:12
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

その中でも、Göttweigかメルクの修道院にいたとされるAvaは、独語圏最初の女性作家で、宗教的テーマを元にした作品を残しています。 1150年頃からは、十字軍と騎士の時代となり、中世オーストリア文学は最盛期を迎えます。英雄詩やミンネサング、道徳的な詩が一世を風靡し、→

2020-02-04 09:32:13
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

さて、ここからは「中世オーストリア文学」のお話になります。まずは時代の復讐から。 3-5世紀:民族大移動 6-10世紀:中世前期、バイエルン人&スラブ人&アヴァール人期と、バイエルン公国時代 11-13世紀:中世中期、バーベンベルクの時代 13-15世紀: 中世後期、ハプスブルク初期

2020-02-04 09:32:12
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

吟遊詩人たちは、ドナウ川を行き来し、歌や詩と共にニュースを運び、バーベンベルク家や封建貴族の宮廷に出入りします。 中世ドイツ文学と異なる点は、マイスタージンガーが流行らなかったことと、受難劇などの演劇詩がアルプスの方で盛んだったことです。

2020-02-04 09:32:13
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

しかしそれだけではなく、ミンネサングは中世騎士の教養でもありました。意中の婦人への敬意と叶わぬ愛をテーマに、「宮廷の愛」を歌った詩は、中世騎士の世界でお馴染みですね。一方後期には、同じ「愛」のテーマでも、直接的なものも出て来るようで、時代と共に変遷します。

2020-02-04 09:32:14
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

初期のミンネセンガーには、Der von KürenbergやDietmar von Aist, Heinrich von Melkなどがいますが、皆ドナウ流域を活動範囲にしていました。 12世紀終わりから13世紀始めにかけては、あの「ニーベルンゲンの詩」が成立します。作者は不明ですが、パッサウからウィーンまでの→

2020-02-04 09:32:14
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

「ミンネサング」とは、直訳すると「愛の歌」ですが、12-14世紀の間に変容、複雑化するため、恋愛だけでなく、社会、歴史など、様々なテーマが取り上げられました。ミンネサングを歌うのは、ミンネセンガーと呼ばれる一種の吟遊詩人で、貴族の宮廷に出入りし、ニュースを伝え、歌を歌いました。

2020-02-04 09:32:13
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

ドナウ流域の情景描写が、ほかに比べてリアルであることから、この地域で書かれたと言われています。 ニーベルンゲンの歌は、ワーグナーの「指輪」で有名な第一部の他に、クリームヒルトがドナウを下ってハンガリー王エッツェル(輿入れする第二部があり、ドナウ流域が物語の舞台になります。

2020-02-04 09:32:14
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

実際舞台になった時代は、民族大移動でフン族がハンガリーにいた4-5世紀だとされていますし、お話自体12-13世紀よりずっと前から口承されていたはずですが、ニーベルンゲンの詩第二部の舞台が、吟遊詩人のメッカ、ドナウ流域であることは、時代背景を考えると、不思議なことではなかったのですね。

2020-02-04 09:32:15
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

ウィーンのバーベンベルク宮廷に出入りしていた詩人は他にも多数いましたが、その中でも最も有名なのは、Neidhart (von Reuental) でしょう。元来、騎士の高貴でプラトニックな憧れの婦人への愛を歌っていたミンネサングをパロディ化し、身も蓋もない農民の直接的で俗なコメディ的恋愛を詩にしました。

2020-02-04 09:32:16
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

13世紀には、ミンネサングの技巧性や複雑さが増し、多くの有名詩人が活躍します。ウィーンのバーベンベルク宮廷にも出入りしていた、吟遊詩人Walther von der Vogelweideは、騎士的恋愛の詩だけでなく、社会風刺や倫理もテーマにした詩を書き、当時の君主に領土まで与えられています。

2020-02-04 09:32:15
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

ウィーンには、Neidhartの詩を壁画にした、15世紀のナイトハルト・フレスコ画が残されているので、ナイトハルトと言うと、詩人より先にフレスコ画が目に浮かぶ人も多いかもしれません。 pic.twitter.com/RzQ4uUXh0d

2020-02-04 09:32:18
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Hyoro@ウィーン @hyoroWien

Ulrich von Liechtensteinも同時期のオーストリアの詩人ですが、元々騎士で、公務員的(家人)。あのリヒテンシュタイン家とは無関係です。高貴な婦人に「ミンネ」(騎士の高貴な愛)を寄せる騎士が主人公の、半自伝的物語を書きました。

2020-02-04 09:32:18
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

ミンネサングの詩は、当時はメロディーがついて歌われたのですが、現在まで曲が残っているものはほとんどありません。その例外が、Oswald von Wolkensteinで、今でも時々音楽付きで上演されます。彼は南チロル出身で、旅人で外交官でしたが、チロルとドイツを活動範囲にしていました。

2020-02-04 09:32:19
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

作品のテーマは、旅と神と性。彼はオーストリアの高校でも習うメジャーな詩人なのですが、性的な詩の印象が強いようです。初期のミンネサングの愛の高貴さが失われ、性的で直接的な表現が多用されますが、これがある意味、中世の一般人の普段着の姿なのでしょう。

2020-02-04 09:32:19
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

というわけで、「中世オーストリア文学」について、概観してみました。基本的にはミンネサングとニーベルンゲンって感じですねw。中世が終わりに近づき、騎士や十字軍が勢いを失うにつれて、ミンネサングの高貴さが失われ、世俗化して行き、逆に詩的技巧は精緻になって行く点が、興味深かったです。

2020-02-04 09:32:19
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

また、吟遊詩人の活動範囲が、ドナウ流域→ウィーンに移っていく様子や、ミンネサングの担い手が、吟遊詩人から旅する公務員(どちらも身分は騎士ですが)に移り変わっていく点も、中世中期から後期にかけての、時代感を感じさせます。

2020-02-04 09:32:20
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

また、ニーベルンゲンファンとしては、私が現地調査したドナウ沿いの小さな町や村が、中世当時はもっと栄えていたこと、そしてなにより、ニーベルンゲンの作者がこの場所を歩いて作品に残したことに感動しました。

2020-02-04 09:32:20
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

このドナウの流れを、5世紀にクリームヒルト(のモデルとなる人物)が下り、その伝説を13世紀に「ニーベルンゲンの詩」にまとめた人も、ここを行ったり来たりしていた。そんな歴史の流れを、ドナウを見ながら考えてしまうのです。 pic.twitter.com/MpBk9IIJQw

2020-02-04 09:32:21
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Hyoro@ウィーン @hyoroWien

これで一旦、「中世オーストリア文学」についてのツイートはおしまいにします。まだ追記することが出てくると思うので、ここに繋げていきますね。最後に、中世ドイツ語のスペリングについてのツイートを貼っておきます。 twitter.com/hyoroWien/stat…

2020-02-04 09:32:22
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

中世ドイツ語が気になって、「ニーベルンゲンの詩」原文を久々に読み返してみた。もちろん第二部のクリームヒルト輿入れ道中の箇所。おなじみの地名のスペルがこんな感じになってる。 Wiene←Wienウィーン Hiunen←Hunnenフン族 Pazzouwe←Passauパッサウ Tuonouwe←Donauドナウ pic.twitter.com/5MlKntQuZh

2018-10-14 03:29:43
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

中世ドイツ語が気になって、「ニーベルンゲンの詩」原文を久々に読み返してみた。もちろん第二部のクリームヒルト輿入れ道中の箇所。おなじみの地名のスペルがこんな感じになってる。 Wiene←Wienウィーン Hiunen←Hunnenフン族 Pazzouwe←Passauパッサウ Tuonouwe←Donauドナウ pic.twitter.com/5MlKntQuZh

2018-10-14 03:29:43
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Hyoro@ウィーン @hyoroWien

中世の吟遊詩人でオーストリア人が1番に思い浮かべるのは、センガーブロンデルだと思うので、追記しておきます。イギリスのリチャード獅子心王(第三回十字軍に参加してる間、イギリスではジョン王が治め、ロビンフッド伝説が生まれた)が幽閉されていたとされています。twitter.com/hyoroWien/stat…

2020-02-05 06:03:27
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

オーストリア公レオポルト5世について追記。バーベンベルク家ハインリヒ・ヤソミゴットの息子。第三回十字軍に参加。戦果を誇り自軍の旗を立てたら、リチャードの部下に引きずり下ろされたので、恨みに思って帰国途上のリチャードをウィーンのErdbergで捕まえさせ、デュルンシュタインに幽閉した。

2018-08-19 06:36:58
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

オーストリア公レオポルト5世について追記。バーベンベルク家ハインリヒ・ヤソミゴットの息子。第三回十字軍に参加。戦果を誇り自軍の旗を立てたら、リチャードの部下に引きずり下ろされたので、恨みに思って帰国途上のリチャードをウィーンのErdbergで捕まえさせ、デュルンシュタインに幽閉した。

2018-08-19 06:36:58
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

このリチャード獅子心王を探しに、忠臣で吟遊詩人のセンガーブロンデル(ブロンドの吟遊詩人)が、各地の城を訪ねて歌って周り、主君を見つける話が、伝説として残されています。twitter.com/hyoroWien/stat…

2020-02-05 06:13:57
Hyoro@ウィーン @hyoroWien

そのリチャード王が囚われてたのが、オーストリアのヴァッハウ渓谷のデュルンシュタイン。伝説によれば、どの城に囚われているか不明だったため、吟遊詩人ブロンデルが、王と彼だけが知る歌を歌って城を渡り歩き、場所を特定したとか。ヴァッハウ渓谷には、リチャード王とブロンデルの像もある。

2015-06-25 05:06:57