産業革命とフランス革命とか

16世紀から19世紀のヨーロッパについて個人的に本で読んだこととか考えたことを書いていきます。
39
前へ 1 2 3 ・・ 8 次へ
孫二郎 @344syuri

本格的な工業化が始まる前から、フランドルでは手工業のめざましい発展が進んでいた。 当時の農民はどこでも生活に必要なものを自分で作っていたが、やがてその製品を買い集めて市場で売る商人が現れだした。

2021-10-31 18:37:59
孫二郎 @344syuri

こうなると家ごとに違うサイズのものを作っていては売るにも持ち運ぶにも不自由だ。 商人は家々に「こんなサイズと形のものを作って欲しい」という要望を出す。規格化の萌芽である。

2021-10-31 18:38:24
孫二郎 @344syuri

この商売で儲けを出した商人は、原材料や必要な器具を買う元手のない農民に金や素材を貸し付け、十分な量ができると原料費と工賃を清算して市場へ向かった。 教科書に出てくる「問屋制家内工業」とはこのことである。

2021-10-31 18:38:52
孫二郎 @344syuri

これは農民にとっても悪い話ではなかった。 農業は農繁期と農閑期で必要となる労働力に大きな差があり、農閑期は折角の労働力を遊ばせておくよりも手工芸品を売っていくらか現金を手にする方がよほどましであった。

2021-10-31 18:39:54
孫二郎 @344syuri

現金は商人が運んでくるよその工業品や、スウェーデンのニシン、ポーランドの小麦などを買うのに使われた。 食料が買えるようになったということで、労働力は飢餓の心配からいくらか解放され、むしろ働き手は多いに越したことはなくなる。

2021-10-31 18:40:54
孫二郎 @344syuri

若者は早いうちに配偶者を見つけて結婚し、子供を産んで働き手を増やすことが期待されるようになった。 人口は地元の農地が養える限度を超えて拡大し、婚姻年齢は低下し、栄養状態の良くなった人々は死亡しにくくなった。

2021-10-31 18:42:45
孫二郎 @344syuri

「マルサスの罠」は突破されたのである。

2021-10-31 18:43:04

農業革命

孫二郎 @344syuri

産業革命前夜、西ヨーロッパ全般における人口の急増は当然ながら食糧品の品薄をもたらした。作れば作っただけ売れる大ボーナスタイムである。

2021-11-01 19:53:51
孫二郎 @344syuri

この絶好の売り時を逃すまいとポーランドやプロイセンでは領民を馬車馬のごとく働かせて農作物を増産した。 これをグーツヘルシャフト、農場領主制という。中世以来の農奴制と比較して再版農奴制ともいう。

2021-11-01 19:54:10
孫二郎 @344syuri

西ヨーロッパ自身も手をこまねいていたわけではなかった。何しろ作れば作っただけ売れるのであるから、惜しみなく土地に投資できるというものだ。 この波の先陣をきったのはまたしてもフランドルである。ここでは新しい農法と土地活用が考案された。

2021-11-01 19:54:40
孫二郎 @344syuri

一かたまりの村々の中でとりわけ土地が肥えているところを選んで新農法で耕し、残りの生産性の良くない土地ではきっぱり工業に振り切った。 19世紀にリカードが唱えた比較優位を経験から早くも実践していたのである。

2021-11-01 19:55:12
孫二郎 @344syuri

新農法の方はイギリスに渡って大輪の花を咲かせたため、それをはじめて取り入れた地の名を関して「ノーフォーク農法」という。 これまでの三圃式農業の泣き所は、一サイクルごとに1期休耕を挟まなければならないことと、冬場に家畜の飼料が足りなくなることであった。

2021-11-01 19:55:39
孫二郎 @344syuri

新農法では、単なる休耕地にするのではなくクローバーやイガマメ、ライグラスなどの牧草を植え、家畜の糞で畑を肥やした。 これらの牧草は皆マメ科で、共生する根粒菌の働きで空中の窒素を地中で窒素化合物に合成し、天然の肥料として使うことができる。これを窒素固定という。

2021-11-01 19:56:17
孫二郎 @344syuri

それから、冬場に合わせてカブの栽培を始めた。カブは人が食べるわけではなく、家畜の飼料である。 これまで冬には家畜を屠殺して肉にしていたが、その必要はなくなった。

2021-11-01 20:01:38
孫二郎 @344syuri

これらの新農法は「第二次囲い込み」とともに整然と導入されたかのように見られているが、実際には囲い込まれた農地だけではなく小農の土地でも絶え間なくローカライズが行われており、試行錯誤の結果本来のノーフォーク農法とはかなり異なる形で導入されることもよくあった。

2021-11-01 20:02:23
孫二郎 @344syuri

いずれにせよイギリスの農業生産力はこのころを境に大きく飛躍し、海外に輸出するほどの余剰が生まれた。 イギリスでは、この一連の変革に「農業革命」という名前が与えられた。たとえ急激でも華々しくもなくても、それは確かに革命だったのである。

2021-11-01 20:03:05

コルベルティズムの毒

孫二郎 @344syuri

穀物価格の高騰は当然西欧最大の農業国フランスをも巻き込んだ。 しかし、フランスはその努力にも関わらずイギリスほどには穀物生産を伸ばせなかった。

2021-11-02 21:50:23
孫二郎 @344syuri

フランスは伝統的に土地の分割相続を旨としており、その帰結として大量の零細農家を抱えていた。 食うや食わずの貧農に土地への投資など望むべくもないであろう。

2021-11-02 21:50:47
孫二郎 @344syuri

またフランスでは穀物の流通・販売に強い制限がかけられており、地主や借地農の投資意欲を大いに削いでいた。 作っても売る場所は限られ、売値も安い値段に固定されているのであれば投資しても見返りはないと考えるのも無理はない。

2021-11-02 21:51:12
孫二郎 @344syuri

コルベールの置き土産たる穀物価格の安定化政策の毒がついに回ってきたのである。

2021-11-02 21:51:38
孫二郎 @344syuri

時の財務総監テュルゴーは重農主義者としても知られるが、この問題の要は穀物規制にありと見抜き、これを廃止した。 これで穀物は増産され、農業者の所得は増えるであろう。生活に余裕のできた農家は工業品を購入するであろう。 危機に瀕したフランス経済は立ち直るに違いない…と思われた。

2021-11-02 21:52:47
孫二郎 @344syuri

だがテュルゴーにとってもフランスにとっても不幸なことに、この年のフランスは記録的な不作に見舞われたのである。 都市部では小麦やパンの値段が望まれない形で上がり、早くも四月にはディジョンで食糧暴動が発生している。

2021-11-02 21:53:23
孫二郎 @344syuri

この現実を前に、王はテュルゴーを守り切れなかった。テュルゴーがついに罷免されると同時にフランス王室の未来の最後の扉もまた閉ざされることとなったが、そのことが明らかになるまではなお10年以上の歳月を要した。

2021-11-02 21:54:56
前へ 1 2 3 ・・ 8 次へ