愛媛県奥深く「八軒以上家が増えない」とも言い伝えられている、航空写真からも消えてしまった集落を巡るレポート

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R774@まとめ屋 @kendou774

スレッドにします。 『八軒以上に増えない集落』それは姫の怨みだとも伝えられる。愛媛県の奥深く、既に住む人はなく、最新の航空写真からも姿が消えた集落がある。しかし、今も地図に残るその集落は、かつての街道沿いにあり、長い歴史を誇るというのだ。伊予三島市『元之庄』集落の今を記録する。 pic.twitter.com/vaLHb3HLsy

2022-03-06 13:12:43
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歴史浪漫に満ちた四国山地。この四国山地を地図で眺めた時、山々の奥深くにある集落が目に付いたのだ。その集落は『元之庄』と呼び、これほどの山奥にも関わらず、古くは鎌倉時代に『竹林寺』という寺院が存在し、更には集落にまつわるいくつもの伝説が伝わるという。元之庄はどのような集落なのか。 pic.twitter.com/JAUHn9YVNG

2022-03-06 13:13:51
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伊予三島市の港から法皇山脈を眺める。四国を代表する工業都市の愛媛県伊予三島市(現・四国中央市)。市街地の背後には標高1000m近い峰々が聳える。かつて、この峰々の向こうに富郷(とみさと)という村があり、元之庄(もとのしょう)はその富郷村に属していた。令和3年夏、元之庄へ向かった。 pic.twitter.com/RIuvXWB170

2022-03-06 13:14:38
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昭和の大合併時に消滅した旧・富郷村。伊予三島の市街地から法皇山脈を越えて富郷村に入る。村内は、銅山川と支流が形成するV字谷が続き、川沿いの僅かな平地や斜面上に集落が点在している。それらの集落はいずれも空き家が目立ち、人影も少ない。市街地に近いこともあり過疎化が激しいのだ。 pic.twitter.com/y0zHOCS741

2022-03-06 13:15:34
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富郷村中心部を越えた辺りで、愛媛県道126号線(上猿田三島線)へと曲がる。県道の幅員は狭く、一部にダート区間が残る、いわゆる『険道』だ。美しい猿田川の流れに沿って上流に車を走らせる。1kmほど走ると、ガードレールが不自然に途切れた場所に出る。何故ガードレールが途切れているのか。 pic.twitter.com/dkue2iKGLy

2022-03-06 13:16:22
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『これが元之庄へ向かう山道なのか』 ガードレールが途切れた場所を覗き込むと、山道が伸びていた。しかし、道は雑草に覆われ、怪しげな雰囲気がする。この道を行くのか…若干躊躇ったが山道に入り込んだ。一旦、猿田川に向かって下り、板張りの橋で猿田川を渡る。ここからは長い山道を歩いていく。 pic.twitter.com/DDea9OsIZU

2022-03-06 13:17:14
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山道は急な斜面を横切るようにして高度を上げていく。雑草が生い茂っていたのは先程の箇所だけで、その先の道筋は明朗だった。ただ、道が傷んで足元が不安定な場所もある。苔生した石積みや石段が山道の歴史を表す。長年、元之庄の人々が行き来したこの山道も、今では手入れする人もいないのだろう。 pic.twitter.com/edN4FbIcdV

2022-03-06 13:18:04
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『2本の丸太』 30分かけて斜面を登りきり、627mピークを越えると、周囲の険しさが増す。この辺りで川床までの比高は約100m。川の音が遥か谷底から聞こえてくる。ピークから100mも行かないうちに、目の前に深い谷が現れ、2本の丸太が架かっていた。よく見ると丸太ではなく、電柱木を利用した橋の跡だ。 pic.twitter.com/Z2R3gZmuhQ

2022-03-06 13:19:43
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山と地図(@Yama_Chizu)さんの全国Q地図によれば、『元之庄橋・市道元之庄線・点検実施年度H.30年・判定区分1(健全)』とある。これを渡るのか…実は上流側に迂回路があるのだ。迂回路は、飛び石で川を跨ぐ必要があるものの、わざわざ危険な丸太橋を渡る必要はない。ここは素直に迂回路を通った。 pic.twitter.com/Hlnk8RRtrG

2022-03-06 13:20:31
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元之庄橋から先は、標高差の少ない横駆道となる。所々に作られた石のベンチは、当時の人達が利用していたのだろうか。過去に思いを馳せながら歩き続けること1時間20分。周囲の険しさが和らぎ、複数の墓石が見えてきた。ようやく元之庄の集落に辿り着いたようだ。墓地のすぐ側には索道跡も残っていた。 pic.twitter.com/CBGg1wbIwr

2022-03-06 13:21:33
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『元之庄』 南向きの集落は日当たりがよく、太陽の光が注ぎ込む。集落に入ってすぐの場所に、巨木に囲まれた石室があり、お供えの痕跡が残る。元之庄には八大龍王が祀られていたと言われるが、ここがそうなのかは定かではない。集落内には美しい石垣が続き、その上には畑や田圃跡、家屋跡が見られる。 pic.twitter.com/CimuUysLy7

2022-03-06 13:22:36
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更に集落内の道を進んでいくと、一軒の家屋が見えてきた。すっかり緑に覆われている。元之庄が無住化したのは、昭和の終わりのことだった。元之庄は自給自足の生活が主体で、焼き畑により、稗、麦、豆、ソバなどを栽培し、近代に入ってからは田圃も作った。また、三椏、楮、炭を現金収入源としていた。 pic.twitter.com/jJSD9ClrH4

2022-03-06 13:23:33
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元之庄の歴史は古い。正應三年(1290年)尾張国春日郡平田邑の地頭高橋治郎左ェ門の養子喜文治らがこの地を拓き、地名を本之山と名付けたのが始まりと言われ、時を同じくして尾張国平田邑の産土神八大龍王を勧請して氏神とした。その後、元之山と名が変わり、更には元之庄となり、現在に至る。 pic.twitter.com/OzAuAweDUo

2022-03-06 13:24:21
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しかし、何故人々はこの地に住み着いたのか。その答えは街道に由来する。鎌倉時代、土佐への街道が伊予三島から寒川峰を越えて、上長瀬、杉成、元之庄を経由していた。それ故、旅人の世話人、案内人としてこの地に住み着いたと考えられる。ちなみに、元之庄の山中には今も茶屋の跡が残るという。 pic.twitter.com/QFXgNSLLMW

2022-03-06 13:25:12
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元之庄の戸数は多い時で七軒。それ以上増えることはなかった。元之庄には『追手から逃れてきた姫の居場所を教えたがために、追手に命を奪われた姫の怨みをうけて八軒以上増えない』という謂れがあり、今でも、『八軒から増えたら焼ける』、『七軒から上できんのよ。したらいかんのよ』との話が残る。 pic.twitter.com/s52NtyhORy

2022-03-06 13:26:14
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他にも伝説が伝わる。『元之庄の渓谷には「いのごのかま」と呼ぶ深い渕があり、八大龍王が住む』、『皿の部落(元之庄)には美人が多く生れるのだと云い、その代表的な美女は「おけさ」と呼ばれて、龍神の化身であった』、『竹林寺の本尊であった観音像は黄金作りであったため、盗賊にとられた』 pic.twitter.com/kJv0m9KliI

2022-03-06 13:27:06
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これらの話には事実も混ざる。いのごのかまは実在する深い淵であり、竹林寺は元之庄に存在した寺院なのだ。市史には『乾元二年尾張金剛山光明院の僧英正を迎え、1302年竹林寺を創建し聖観世音を本尊とした』、『その後宝徳三年 室町時代に竹林寺が火災で焼失し、上長瀬真観寺に併合される』とある。 pic.twitter.com/yRONzDbanQ

2022-03-06 13:28:09
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竹林寺跡を求めて集落内を彷徨う。謎の平場や、お堂らしき跡、手水鉢などを見かけたが、それらが竹林寺跡だという確信はなかった。元之庄にはどのような人の営みがあったのか。竹林寺はどこにあったのか。そもそも竹林寺は実在していたのか。多くの謎を残したまま、元之庄を後にした。 pic.twitter.com/sfnyW1iQFV

2022-03-06 13:29:17
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それからが長かった。現地を訪問したとはいえ、元之庄の情報は得られていないのだ。地道な調査を続けた。何度も伊予三島を訪れ、元之庄の情報を求めていろいろ手を尽くした。その甲斐あって、元之庄に住んでおられたTさんにお話伺うことができた上に、元之庄を案内していただけることになったのだ。 pic.twitter.com/j0CA0GUKWK

2022-03-06 13:30:34
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前回訪問時に青々と茂っていた木々は、艶やかな紅葉に染まっていた。令和3年晩秋。再び元之庄へ向かった。今回は、TさんとTさんの知人の方も一緒だ。道中、Tさんは丁寧に案内してくださった。この細い山道も、当時は自転車が通れたという(案内していただいた内容については後のツイートに纏める) pic.twitter.com/juzIw8XyOU

2022-03-06 13:31:35
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現在、市街地に住むTさんは、元々ご両親と共に元之庄に住んでおられた。そして、Tさんのご両親は元之庄最後の住人であった。『ここらはみんな田圃だったんよ』今、元之庄には木々が生い茂り、当時の姿を想像することは難しい。それでもTさんの記憶には、田畑の広がる美しい元之庄の姿が鮮明に残る。 pic.twitter.com/hD6FYAIqCT

2022-03-06 13:32:56
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竹林寺の場所についても教えていただいた。集落の上方、謎の平場が竹林寺跡だったのだ。当時、Tさん一家がこの場所で田圃を作ろうとした際に、焼けた柱、朝鮮の硬貨らしきもの、臼が掘り出されたという。更にTさんは仰る。『僕らの話聞いたんでは、(元之庄に)宝あるとか、みんなは言うんよ』 pic.twitter.com/FotGuR6X6f

2022-03-06 13:35:36
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これは夢物語ではないかもしれない。というのも、富郷村では明治時代に、古い桜の根本から大量の宋銭が見つかった例があるのだ。街道沿いで寺院もあった元之庄。一体何が埋まっているのだろうか… pic.twitter.com/yuZWdroVi2

2022-03-06 13:36:58
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今回Tさんにお聞きした内容、更に周辺地区で聞き取りした内容は、大変貴重なものでした。それら内容がツイートに収まりきらないので、リンク先のPDFファイルに纏めます。ご覧になれない方は連絡をお願いします。(PDFファイル:101MByte) drive.google.com/file/d/1ku72IF…

2022-03-06 13:38:21