反‐差別論:“差別”は実在しない!

自分の過去の呟きと関連するツイートのまとめ(2010年2月~6月分)。 「あらゆる差別論は粗大ごみ」と放言する程度の人間が、差別論の言説空間から生じる<実在しない対象>としての「差別」や、かほど空疎な概念を論じる<空論>としての「差別論」を、その日の気分で批判してみたりするだけの大変下らないお話。 【ブログの関連記事】 続きを読む
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@Taroupho

.@necratallo こういう、ある意味ではすでに「終わった」議論であるような差別論に、ぼくが拘泥しているのは、「感性のエゴイズム」に対する、ぼくの畸形のこだわりがあるからです。中島先生にとっての「文化騒音問題」が、ぼくにとっての「差別問題」なのですね。

2010-06-07 22:33:28
@necratallo

@Taroupho 寡聞にして中島先生のその問題は存じ上げません、申し訳ありません。ただ、こだわりがあることは了解いたしました。

2010-06-07 22:35:41
@Taroupho

.@necratallo ちなみに、「なぜ差別は実在しないのか」論は、この記事(http://tinyurl.com/2baqxor)で一度、並行的に構成してみたことがあります。ご興味がありましたらどうぞ。

2010-06-07 22:36:03
@necratallo

@Taroupho あれ?同じだと思っていたけど、違ったという感じを受けた。

2010-06-07 22:41:03
@necratallo

.@Taroupho 現に<差別>されているということの言語化という話の筋は明快で、説得力を感じたのですが、僕は言語の意味=言語の基準=言語の定義、世界を切り分ける、つまり言語こそ差別の別名である。という図式を描いていたのですが、これは僕が誤解したのか、違う論点のどちらでしょう?

2010-06-07 22:45:20
@k_fukuzawa

@Taroupho ありがとうございます。あの男性話者の意図はおそらく昇進・賃金差別であろうと思われますが。10数年前の米国では3割減であったという話を読んだことがあります。

2010-06-07 22:58:41
@k_fukuzawa

@Taroupho 同じ本に、「世界平和は個人的な事柄だ」という(個人的に好きな)くだりがあるんですが、差別はその被差別者が差別されていると感じなければ差別ではないので、その最たるものかもしれませんねw

2010-06-07 22:59:24
@Taroupho

.@necratallo 同一論点を考えていた筈だったのですが、確かに永井構図と並行させると微妙だなー。「あらゆる言葉は差別語である」と主張可能であるのは、言語が差別の別名だからです。一方、言語による意識の実在化によって、私を含めたあらゆる人間はゾンビ可能な存在になります。

2010-06-07 22:59:42
@k_fukuzawa

『神との対話』を読んでる某氏に、「世界が戦争状態で自分が何か困るの?」と言われたことがある。また、『引き寄せの法則』を読んでる某氏は「助け合いの精神を学べるので貧困は無理になくす必要はない」と言った。こういうことがいえるのがスピリチュアルのいいところだと個人的には思う。

2010-06-07 23:02:03
@necratallo

.@Taroupho その辺の議論は僕らには馴染みですね、僕は差別はむしろルサンチマンの哲学方向から拡張したくて、価値判断の経由を通じて、必要以上にそのことを意識することを強調された価値観(その言葉を使うことの有罪化)が差別だ、と考える方向に進みたくなります。

2010-06-07 23:02:09
@Taroupho

ああ、なんか、過去に差別の話をしていて、ぼくを悩ませてくれたのは @necratallo さんが初めてだw このレヴェルまでラディカルな差別の話ができることは、まずありえないから。感謝感謝です。

2010-06-07 23:03:16
@Taroupho

とりあえず、永井意識論と「完全に並行的」だと言ったのは勇み足だったかな。永井哲学と同型の問題として差別論を論じられる側面もあるというだけのこと、か。

2010-06-08 00:01:33
@Taroupho

確かに、@necratallo 氏のおっしゃる通り、差別論のルサンチマン的解釈も有効な筈で、その場合、倫理学的な議論と接続できるだろう。ニーチェ(『道徳の系譜』)的には、「よい/悪い」がキリスト教的価値顛倒の結果「善/悪」に変質したことと繋がる。

2010-06-08 00:09:24
@Taroupho

その結果、罪の観念を理解した者は、もはや「自分は罪を犯さない」と言うことはできなくなる(アウグスティヌスがそんな話をしていた)。同様に、差別の観念を理解した者は、もはや「自分は差別していない」と言うことができない。差別観念の獲得が問題なので、一旦獲得されてしまえば常にそうなる。

2010-06-08 00:13:42
@Taroupho

従って、差別観念を獲得した人間は、「自分は誰かを差別しているのではないか」という不安に駈り立てられる存在となり、決して自責から自由になることはできない。一切の〈忘却〉、ニーチェ的な〈子供〉の可能性だけが、差別の閉域から逃れる唯一の方法なのだろう。

2010-06-08 00:17:06
@Taroupho

@k_fukuzawa 各個人がばらばらの存在になってゆけば、社会的階級は解体されてゆかざるをえないので、最後には「社会問題」はなくなって、カウンセリングなり何なりで解決すべき「個人の問題」だけが残る、という話を最近していたのですが……少しニュアンスが違うかもですね。

2010-06-08 00:25:11
@necratallo

@Taroupho ちなみに、僕は皆がそうなっているという現代の内面化されたシステム自体が問題だというところまでは、永井先生に同意していますが、その先の議論でこの前のようなことを考えていたのです(不道徳観とか)。

2010-06-08 08:50:16
@necratallo

僕が差別論に対して距離を取るのは、本当に差別されているという意識に悩む人と、差別があることを強調することで道徳的な意味での利益を享受しようとする人間が本質的に区別できないし、差別を論じること自体が差別概念を強化する図式があるからだ。僕はそうなった時に自分の立ち位置を決められない。

2010-06-08 08:55:12
@necratallo

言語の成立場面においては、多分ウィトゲンシュタインの言う直示的定義が働いていただろう、それは私的言語同士がお互いに運用の場面での都合不都合を通じて実際に修正されていく仮定だったに違いない。ともすれば、その時に私とあなたを指し示した時から、すでに私・他者把握の問題は始まっていた。

2010-06-08 09:02:44
@necratallo

具体的には、お互いに集団で、道のどちらかに進もうとしている、その時に、誰かが指を指す、それは分かれ道の進む先だったり、外敵や獲物の発見だと言ったことからスタートしただろう(直示的定義)、その後の振る舞いによって各自の私的言語は修正される、後は言語に必要なのは記憶だろうか?

2010-06-08 09:05:44
@necratallo

このように考えた時、言語の成立時に必要だったのは運用上の都合、不都合(正解、不正解)と、それを媒介する為の好悪(良し悪し)、直示的定義、だろう、後は記憶と発声というところが絡みそうだが、はて?

2010-06-08 09:07:22
@necratallo

そうか、差別問題も意味が成立したあとの私的言語の違いとして定式化できるのか! 一旦意味が成立したあとには、”語義は同一である”と捉えられる、このことが、語義の違いと価値観の違いを照らし出す。実際には彼が問題にした価値判断を伴う事実は、一回性かもしれない、という形で逆差別される!

2010-06-08 11:04:29
@necratallo

流れを整理すると、運用上の修正が言語の語義・語義間、私的言語・私的言語間で行われていくのだけど、そこにある種の暴力性がともなう、この時、私的言語への密かな通路が措定され、差別された方も、逆差別を指摘された方も、ある種の不快感を想起する?

2010-06-08 11:06:35
@necratallo

全ては、語義が同一であるという人間が持つ素朴な信仰がもたらす騙し絵というわけか。しかしコミュニケーション、人間としての在り方が語義を同一だと思うことを前提するという矛盾があるなぁ。

2010-06-08 11:12:52
@necratallo

同一存在だとみなさせたい、みなされたい、ということと、その手の語義の非同一性、事実の一回性の回収後における指摘にならざるを得ないという相反は、本当に永井氏の指摘した中でも最も鋭い指摘だな、むしろデリダか?

2010-06-08 11:18:14