作品とコンセプトと説明
作品の実存を問題にしたら、究極的には保坂和志(その人でなく)の考えるような概念すれすれになる。その事を退けてまで、プレゼンテーションや観客(によって作品は存在するのは自明)へのみえかたを用意することが美術の技術と言い切るのは疑問がある
2012-05-29 15:55:54【作品と説明】 あらゆる「説明」は、それを求める側(状況)がもつプロット(枠組み)におもねられる。例えば「貴様は何者だ?」という質問への応えは、職場、学会、路上のチンピラ等、その対象によって異にする。その意味で「質問」とは一つの権力となる。これは人類学調査で最初に迎える通過儀礼。
2012-05-29 17:00:56ところが、そこでプロットの複数性を考慮できない質問者であれば、その質問が抱えるプロットに沿わない説明にたいして自動的に低評価を与えてしまうことになる。そこで肝要となるのが、質問者自身による質問プロットへの自問、もしくは異なるプロットにたいする推量・推察能力への内省的な自問である。
2012-05-29 17:07:03この質問者自身が抱えるプロットへの考察が、「説明」をもとめる側のモラルとしてある。但し、このモラルはモノカルチュラルな、単一アート観においては問われることがない。則ち、「作家はすべからく美術史的プロットに資するべき」となってしまう。これではプロット以前にコードの複数性すらない。
2012-05-29 17:15:28作家に作品のプレゼンをもとめる風潮がどのようなプロットから成るのかといった問題もあるが、少なくともそこで質問者のモラルというものの考慮(成熟)がなされないなら、それは風潮どまりでしかなくなるであろう。
2012-05-29 17:24:45●ここにもプロット問題が。「対西洋」プロットから出る方法の一つは、アフリカに行くことw。 RT @omuraji: ブログ更新「対西洋」 http://t.co/u9jO18gO
2012-05-29 17:51:36@ka2saiki そういえば、齋木さんがギャラリー山口で発表された「3 Frames」(フタバ画廊の「Arrangements」かもしれません)の展評を美術手帖のバックナンバーで拝見して、それが今も気になっています(フレームの問題は僕のテーマの1つということもあるので)。
2012-05-29 19:45:12そもそも「見ればわかる」と「コンセプトを言葉で説明して説得する」の二項対立しか思いつかない時点であまりにも幼稚な議論。まあ批評と言うよりは「世渡り指南」のたぐいだと思えば気にするまでもないか。
2012-05-29 20:28:20作者の言葉が作品を理解する上で最良の鍵となることはもちろんあるだろう。しかしそれを「くれて当然」との態度で真正面から強請ることの恥ずかしさに、「批評家」はいい加減そろそろ気付かないのだろうか?
2012-05-29 20:29:01土屋誠一さんと水野亮さんと中島智さんの「コンセプト」「作品と説明」についての意見が興味深いです。詳しくは水野さんのツイートで→ @drawinghell
2012-05-29 21:45:02僕自身の考えでは、先ほどのような意見に対して独自の見解があることは大前提(それは優れた作家であれば頭で考えずとも感覚で理解し身に付けていることのはず)で、作家としては、作品について話したり、質問されたりする場で「質」のある言葉を発することができるかどうかにかかっていると思います。
2012-05-29 21:48:23土屋さんの話でいえば、言語化する技術は必要。水野さんの話でいえば、二項対立、世渡り指南は不要。中島さんの話でいえば、枠組みの先取りは自殺行為(e.g.写真村でいえば某ステートメント講座などあり得ない)。そして、自分の話でいえば、ワークショップでそれが全然上手く伝えられず苦戦中。
2012-05-29 21:50:34「質」についての説明は難しいですが、例えばcomos-tvに出演した作家の言葉や佇まいから帰納できるのでは?と思います。あと、スタンド使いじゃないですが、ダメな人はダメな人と、能力のある人は能力のある人と引き付け合うので、能力のある人の近くにいて斥力を感じなければOK(?)です。
2012-05-29 21:50:53以下、マイケル・フリード・インタビューからの引用。photographers's gallery press no.9, p.20
2012-05-29 22:33:30「基本的なルールが私にはあります。自分に課せられた仕事に対する私自身の理解に即して言えば、アーティストが行った何かに対して、なぜそうしたのかを尋ねることは私には決して許されていません。今ではデマンドのことをとてもよく知っています。(続く)
2012-05-29 22:33:37しかし、「なぜこれをやっているんですか?」などと彼に聞くことは絶対にないでしょう。それどころか、もし誰かが私の目の前でそのような質問を彼に尋ねようものなら、私は即座にその場を立ち去るでしょうね! (続く)
2012-05-29 22:33:50なぜなら私にとって、「なぜ」という問いー意味、意図、動機に関する問いーは私自身が解決するべきことですから。それこそが私の仕事であり、楽しみなのです。それこそが取組み全体を批評的に意味あるものに変えるわけですし、それこそがこのようなことを行う喜びなのです。」
2012-05-29 22:33:57言説と作品の抱き合わせがcontemporary artの前提としても、作品良くなきゃしょうがないじゃん。理屈さえ通ってりゃモノがどうでもいいなんざ、詐欺師の言い分。
2012-05-29 23:19:36作家/批評家という項を固定的なものとして考えると、変なことになる。それはどういった立場を引き受けるかの違い。別に批評家だからと言ってその発話に正当性があるわけでもなければ、どこか超越的な立場から発話しているわけでもないのが、なぜわからないのかがわからないね。
2012-05-29 23:41:13先ほどの>@drawinghell の補足。土屋さん→教育上のロールプレイならもちろん効果ありかと。水野さん→批評家の言葉という判断は早計だったかも…心情的にはまったく同意。中島さん→プレゼンというか対話のための力は必要なのかなと。外では、ほぼ共有するもののない他者と対面するので
2012-05-29 23:51:53