作品とコンセプトと説明

関連: 宮島達男「アートと言葉」 - Togetter http://togetter.com/li/209645 畠山直哉展「Natural Stories ナチュラル・ストーリーズ」と「作者が自分の作品について語ること」の意味 - Togetter http://togetter.com/li/208546
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やまももも @yamamomomo

それがいくら技術が高くてもね。ほら、たとえばアートフェアなんかでちらほらと見かけませんか?「色のついた株券」みたいな作品を。そんなのは、「作品」としてつまらないの極みだと思います。

2012-05-30 12:12:55
やまももも @yamamomomo

だから、作家がちょっとプレゼンしたくらいで納得しつくせちゃう作品なんて詰まらんし、そんなの創ってる限りは幾ら黙秘したって意味ねーから。むしろくそみそにけなされる作品の方が可能性があると思うけどねえ。

2012-05-30 12:17:07
やまももも @yamamomomo

「ずれ」とか「謎」とかを含み、観客が色んな風に解釈の余地が出来、拡まっていく作品。作者がどんだけ判り易く説明しようがひとりの批評家が批判しようが、それがある作品の意味は、閉ざされないどころか、どんどん拡まり続けるでしょう。そういうのが「古典」になる「普遍的」な作品になると思う。

2012-05-30 12:23:30
Taxxaka @Taxxaka

@seiichitsuchiya 嫌いと好きは似てるから…

2012-05-30 12:53:05
利根川友理 @YuriTONEGAWA

@seiichitsuchiya 僭越ながら、となたも土屋さんをバカだなんて断定してませんよ。ただ、私は土屋さんのご発言を拝読して土屋さんのスタンスが今ひとつわかりません。(私が馬鹿なの?)反面教師を目指しているのかしら?いずれせよ私は健全で明るい美術界の未来を望みます。降ります

2012-05-30 13:07:55
中島 智 @nakashima001

【再囀】 水野亮 @drawinghell 「作品を語ることについて語る」 http://t.co/o1Qmxeee 特別講義@武蔵野美術大学

2012-05-30 15:52:03
福居伸宏 Nobuhiro Fukui @n291

@drawinghell やはり土屋さんは批評家ではなく教育者(沖縄県芸講師)として発言していたのだと思います。その後のツイートを→http://t.co/of0MSRvl しかし水野さんの話で言えば“言葉に対して批評家は特別なポジションに置かれる”ことにもなり難しいです(^^;

2012-05-30 18:18:32
福居伸宏 Nobuhiro Fukui @n291

@drawinghell そういえば、水野さんのこんなブログ記事もありましたね。【シンポジウム「批評」 - Diary written with English language skill at dog level】http://t.co/xmB8x6U2

2012-05-30 18:24:09
福居伸宏 Nobuhiro Fukui @n291

@ka2saiki 最初の個展だったんですね。またバックナンバーを読み返してみます。僕はまず齋木さんの展覧会評の掲載図版に反応しました。向後兼一さんよりも断然おもしろいのでは?というふうに。

2012-05-30 18:27:45
福田尚代 @fukudanaoyo

作品に潜在する、作者も知らない〈それ〉を自ら語ることの不可能さ。語れると思うことの滑稽さ。語り得ないことの苦しみ。そんな思いなど余所に、〈それ〉は、別の誰かの作品の〈それ〉にのみ呼応して、そして続いてゆく。

2012-05-30 19:12:31
@drawinghell

@n291 まぁ自分も半分くらいは「確信犯」だったんですがw ただ「美術批評家」全般に対する根拠のない悪意から個人攻撃的に突出してしまった感があるのは我ながら下劣だったなと反省もしています。セーブしてるつもりでもやっぱりツイッターは地が出ますね^^;

2012-05-30 19:49:18
@drawinghell

@n291 「勝手な敵意」、変わってないww

2012-05-30 19:50:37
中島 智 @nakashima001

やはり老婆心を受け取れない人はいるのだね。「これが僕の方法なのだ」ならスルーするが、「美術教育の文脈なのだ」となれば、教員がそんな浅薄な考えじゃマズいよと老婆心がでてしまうというもの。

2012-05-30 20:36:41
中島 智 @nakashima001

「ツイッターじゃ単純なことしか言えないじゃないか」というのもお互い様なのだが、にもかかわらず「単純な他者/複雑な私」的な構図で考えてしまうむきにも問題がある。

2012-05-30 20:39:22
中島 智 @nakashima001

そこが前提ですよね。 RT @fukudanaoyo: 作品に潜在する、作者も知らない〈それ〉を自ら語ることの不可能さ。語れると思うことの滑稽さ。語り得ないことの苦しみ。そんな思いなど余所に、〈それ〉は、別の誰かの作品の〈それ〉にのみ呼応して、そして続いてゆく。

2012-05-30 20:56:18
福田尚代 @fukudanaoyo

ああ、それでも他者の作品に潜在する地下水を汲みあげる術を持つ人は、いつの時代にもいるのでしょうね。作品が逢いに行くのはそんな人です。

2012-05-30 20:56:50
福田尚代 @fukudanaoyo

@nakashima001 皆さんのやりとりから外れた様なもの言いしかできず、もどかしくもありますが。個人の誰の発言ということでなく、根深い問題として捉えていることが伝わるといいですね。

2012-05-30 21:16:51
中島 智 @nakashima001

<それ>と<それ>が互いに考え合って作品がうまれる仕組みが解らなければ、そして<それ>独自の論理は慣習言語の論理に翻訳できないことを前提にできなければ、「対話」さえ成り立たないだろう。則ち、<それ>がある切り口で説明された時、その説明がどのような虚構であるのかが読めなくなる。

2012-05-30 21:17:05
中島 智 @nakashima001

そう思います。ここには「美術というメディア」が古代から現代まで、また汎人類的に存続してきた所以にかかわる問題までもが、通奏低音を奏でています。 RT @fukudanaoyo: …個人の誰の発言ということでなく、根深い問題として捉えていることが伝わるといいですね。

2012-05-30 21:29:28
中島 智 @nakashima001

つまるところ、それはメディアの認知という問題なのだと思います。ですから翻訳不可能性は前提とされ、作品(メディア)と説明(翻訳)とのあいだには断絶が前提とならなければなりません。でなければ、聞き手はその説明を「作者による作品解釈」と勘違いしてしまいます。 @fukudanaoyo:

2012-05-30 21:39:00
中島 智 @nakashima001

「作品と説明」冒頭で述べたように、例えば自己紹介をする人はそれを語る相手(状況)のプロットをもちいて自身に<ひとつの>切り口をつける。それは「その人による自己解釈」とは呼べない。もとよりそれは「解釈」の全体性ではないから。しかも自身で「解釈」し得る部分など氷山の一角にすぎない。

2012-05-30 21:56:28
福田尚代 @fukudanaoyo

@nakashima001 まさに古来脈々と。それが現代の日本では作家としての巨大さや強さと結びついてゆくことをやや警戒する思いで見てきました。

2012-05-30 22:08:17
中島 智 @nakashima001

以前自著でも触れたことだが、作家NRさんは複数の批評家が「これは○○を表現したのですか」「△△を考えているのでしょうか」といった質問に、すべて「その通りです」と応えた。NRさんは説明原理(の虚構性)というものを心得ていたのだ。ところが批評家たちは我こそが目利きであると勘違いした。

2012-05-30 22:12:41
福田尚代 @fukudanaoyo

作品と愛の関係のさまざま。彼にとって作品にまつわる〈成功〉とは、愛を獲得する手段かもしれない。彼女の作品は、捧げる心身そのものかもしれない。あるいは、愛を隠す為の嘘かもしれない。消えた愛そのものかもしれない。

2012-05-30 22:19:22
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