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遊牧民@破滅的肩凝 @Historian_nomad
さて清朝とは満洲に興起した女真族首長ヌルハチによって興された王朝である。「満洲」の呼称は、ヌルハチの後金国をマンジュ=グルンと称したこと、そしてその子ホンタイジが「属民」を意味するジュシェンの自称を廃し「満洲(マンジュ)」を採用したことによる。 #遊牧民の清朝国家論基礎
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ヌルハチが現れた当時、女真諸部は群雄割拠の状態にあり、明がそれを助長して遼東統治の益に供する状況であった。女真諸部は、自らが産する皮革や馬をもって明との交易に臨み、この明との交易許可証を持っている者が女真各部の有力者として看做されていた。 #遊牧民の清朝国家論基礎
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このような情勢の中、ヌルハチは当時の遼東総兵官李成梁と結託。女真諸部の中で勢力を拡大し、かつ交易の利を納めた。この際李成梁に対しても多額の献金がなされたが、その李成梁の後ろ盾によりヌルハチは女真諸部の中から抜きん出た存在になることができた。 #遊牧民の清朝国家論基礎
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これに対し、既存の女真各部の勢力はヌルハチの台頭を危険視。海西女真を忠臣としてヌルハチと全面対決を行うに至る。この戦いにヌルハチは完勝し、女真諸部の中での優位性を更に高めた。 #遊牧民の清朝国家論基礎
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この間、かつてヌルハチの後ろ盾となった李成梁は汚職を弾劾され失脚。明もヌルハチの動きを警戒し始めたものの、秀吉の朝鮮出兵により遼東への対応を行うことができなくなる。この隙をついてヌルハチは海西女真のハダ部を滅ぼし、更に勢力を拡大した。 #遊牧民の清朝国家論基礎
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朝鮮をめぐる戦役をなんとか収めた明は、ヌルハチの台頭を本格的に危険視。海西女真のイェヘ部を後援してヌルハチに対抗させることとした。夷を以て夷を制するの策である。 #遊牧民の清朝国家論基礎
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そのような中、1616年、ヌルハチはヘトゥアラにてハンを称して後金国を建国。続いてモンゴル文字を改良した満洲文字を制定させる。更に属下の部衆をニル・ジャランに編成し、そのトップに自らの子弟親族や投降した女真諸部長を任じた。いわゆる八旗制の始まりである。 #遊牧民の清朝国家論基礎
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ここで押さえておかなければならないことは、ヌルハチは決して自らの裁量によって部衆を分配し属下を再構成し直したのではないのことである。あくまでもそれまでの部族構成を強く反映したうえでの、八旗編成であった。 #遊牧民の清朝国家論基礎
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また、ハンとなったからといって即座に唯一絶対の君主として振る舞えたわけではなかった。むしろ、ハンはあくまでも諸旗王や属民から奉戴されたものであり、諸政策は合議によって決定された。 #遊牧民の清朝国家論基礎
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ハンとなるということが、絶対君主となることと同義ではないこと。これは決して忘れてはならない重要事項である。八旗の各旗王に属する旗人に対しては、例えハン・皇帝といえども直接命令を下すことはできなかった。これは清朝滅亡まで変わらない。 #遊牧民の清朝国家論基礎
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これが清朝の多面的な性格の一、満洲のハンにして諸旗王のひとりであるという側面である。ハンは満洲の主人であるが、同時に自らもひとりの旗王に過ぎず、自らが領する上三旗以外の下五旗に対しては、自らの諸子を旗王に封ずることなどでしか、影響力は行使できなかった。 #遊牧民の清朝国家論基礎
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さておき、ヌルハチの活躍と死についてに戻る。ヌルハチの台頭に対し明朝はついに直接討伐を決意。47万を号する大軍を持ってヌルハチ討伐に向かった。ヌルハチの軍は号して10万。双方の誇張を含めても絶望的な戦力差であった。 #遊牧民の清朝国家論基礎
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しかし、明軍諸将が功を焦って一致した軍事行動を取らなかったことがヌルハチに幸いした。ヌルハチは戦場を駆け廻り突出した明の各方面軍を各個撃破。これによって明軍は壊滅し、ヌルハチは大勝した。 #遊牧民の清朝国家論基礎
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これによって明軍は遼東に対する影響力を完全に喪失。ヌルハチは後ろ盾を失った海西イェヘ部を滅ぼして併合。長らく分裂状態にあった女真諸部の統一はここに成ったのである。勢いに乗ったヌルハチは、遼東方面における長城の要衝・山海関を攻めた。これが彼の命取りとなる。 #遊牧民の清朝国家論基礎
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すなわち、山海関外の寧遠城によった名将・袁崇煥によるポルトガル製大砲の猛攻によってヌルハチは大敗。撤退して数日後、病によって没した。あるいは大砲によって受けた傷がもととも言われる。 #遊牧民の清朝国家論基礎
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ヌルハチの死によって浮上したのが後継者問題である。長子チュエンはヌルハチと対立して廃され、次子ダイシャンは後妻に唆されて前妻の子を除こうとしたためにヌルハチの激怒を被り後継者レースから外れていた。諸子の内誰がヌルハチの後を継ぐのか。緊迫した空気が漂った。 #遊牧民の清朝国家論基礎
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合議と暗闘の末、第八子ホンタイジがヌルハチの後を継いだ。彼は身分の高い夫人から生まれた嫡出子としては第三子にあたり、その即位に不自然な面はないとも言われる。しかし、有力な後継候補であったダイシャン存命での即位には、やはり疑念が生まれがちではあった。 #遊牧民の清朝国家論基礎
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いずれにせよ、ヌルハチ死後の後金国における内部分裂の危機は回避された。しかし外部への影響は抑え切れなかった。朝鮮の貢納拒絶と、モンゴルのチャハル部長リンダン=ハーン殿対立である。 #遊牧民の清朝国家論基礎
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この状況に対しホンタイジはまず朝鮮を武力で屈服させ、続いて明への侵攻を企てた。これは敵将袁崇煥によって防がれたが、ホンタイジは離間計を策して袁崇煥を明に処刑させることに成功する。 #遊牧民の清朝国家論基礎
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更に後金にとっての幸運が続く。内モンゴル諸部を次々と屈服させ、再度モンゴルの統一を目指したリンダン=ハーンが青海・チベット遠征の途上病没。強権政治で押さえこんでいた部衆の離反が相次ぎ、チャハル部最期の覇権があっさりと崩壊したのである。 #遊牧民の清朝国家論基礎
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離散した部衆は多く後金へと投降。このような状況において、リンダンの子エジェイは後金への抵抗を断念。自らの持つ「大元伝国之璽」をホンタイジに献上した。これを受け、ホンタイジは満・蒙・漢から推戴を受け大ハーンに即位。国号を大清と改めた。 #遊牧民の清朝国家論基礎
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これによって清朝はもう一つの側面をあらわにした。即ち、モンゴル帝国の正統を受け継いだモンゴルの大ハーンとしての顔である。この正統性によって、清朝はモンゴル諸部に対する自らの正統性を確認し、彼等を藩部として支配下に置いたのである。 #遊牧民の清朝国家論基礎
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また、チャハル部投降によって支配下に置かれたモンゴル諸部を内ジャサク・モンゴルとし、後に清朝の帰属したハルハ・モンゴルを外ジャサク・モンゴルとした。これが現在の「内モンゴル」という呼称の原点である。 #遊牧民の清朝国家論基礎
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モンゴル諸部は、清朝皇帝とはあくまで「モンゴル帝国の正統を譲られた大ハーン」であると捉えた。我々が服するのは、モンゴルの正統を受け継いだ「満洲人の」皇帝である。漢人に屈服したことなど一度たりともない。これがモンゴルの認識であった。 #遊牧民の清朝国家論基礎
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