遊牧民(@Historian_nomad)さんの清朝国家論基礎

遊牧民(@Historian_nomad)さんの、清朝国家についての連続ツイートです。 とりあえずまとめました。
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遊牧民@インド遠征軍 @Historian_nomad

それはさておき、ホンタイジは「大清皇帝」に即位後、それを認めない朝鮮を再度武力制圧。完全に自らの冊封国とした。しかし、堅牢な山海関を落とすことはできぬまま、1643年に没した。この数カ月後、時代は大きな転換点を迎えることとなる。 #遊牧民の清朝国家論基礎

2012-06-06 21:11:59
遊牧民@インド遠征軍 @Historian_nomad

すなわち、明国内を荒らしまわっていた李自成がついに北京を陥落。崇禎帝が自害し、明は事実上滅亡した。事ここに至り、山海関の守将呉三桂は内の敵・李自成撃滅のため外の敵・大清に援軍を要請した。 #遊牧民の清朝国家論基礎

2012-06-06 21:13:53
遊牧民@インド遠征軍 @Historian_nomad

これを受け、幼帝順治帝を戴く大清は山海関を突破。長城以南になだれ込み、またたく間に李自成を追った。これを主導したのは幼帝の叔父・ドルゴンであった。 #遊牧民の清朝国家論基礎

2012-06-06 21:15:31
遊牧民@インド遠征軍 @Historian_nomad

ドルゴンは入関後北京を奪取するとすぐさま崇禎帝を弔い、また税を減免、明官僚の再雇用などで人心を収攬を図った。と同時に忠誠の証として辮髪を編むことを求め、これに反発した華南各地に対し徹底的な弾圧を加えた。漢人支配の飴と鞭である。 #遊牧民の清朝国家論基礎

2012-06-06 21:18:52
遊牧民@インド遠征軍 @Historian_nomad

なお、清朝の華南各地での弾圧・虐殺を誇張と見る向きもあるが、しかし後の青海・ジューンガルでの清軍の苛烈な鎮圧行動を見るに、決して「いわれなき汚名」とはいえないように思える。 #遊牧民の清朝国家論基礎

2012-06-06 21:19:56
遊牧民@インド遠征軍 @Historian_nomad

いずれにせよ、この「入関」によって清朝はついに「中華皇帝」としての顔を手に入れた。最も記録を残すことを好む漢人によって記される清朝皇帝は常にこの顔でもって描かれるため、清朝=中華王朝と捉えられることが多くなった。 #遊牧民の清朝国家論基礎

2012-06-06 21:21:12
遊牧民@インド遠征軍 @Historian_nomad

しかし、既に述べたとおり、清朝皇帝にとって「中華皇帝」の顔はあくまで一側面でしかない。この時点においても、清朝皇帝は「満洲のハン・一旗王」であり「モンゴルの大ハーン」であり「中華皇帝」という複合的な要素を兼ね備えていた。 #遊牧民の清朝国家論基礎

2012-06-06 21:22:17
遊牧民@インド遠征軍 @Historian_nomad

この後、順治-康熙初年間において清朝は既存の支配領域への支配力を確立させる。「中華皇帝」としては三藩の乱、「モンゴルの大ハーン」としてはチャハルのブルニ親王の乱を鎮圧し、「満洲のハン」としてはドルゴン派および「輔政大臣」粛清によってである。 #遊牧民の清朝国家論基礎

2012-06-06 21:24:51
遊牧民@インド遠征軍 @Historian_nomad

こうして支配体制を固めつつあった清朝に対し、新たな問題が勃発する。即ち、未だ帰属していなかったハルハ・モンゴルと、西のジューンガルを統一したガルダン=ボショクトゥ=ハンとの対立が顕在化したのである。 #遊牧民の清朝国家論

2012-06-06 21:27:27
遊牧民@インド遠征軍 @Historian_nomad

ここで、清朝、モンゴル、チベット、そしてオイラトとの関係を見ておかなければならない。モンゴルとオイラトは16世紀末~17世紀にかけてチベット仏教に帰依し、その信仰の度合いは時代を下るにつれてますます深まっていた。 #遊牧民の清朝国家論

2012-06-06 21:29:20
遊牧民@インド遠征軍 @Historian_nomad

特に、ダライラマ五世の時代、ゲルク派チベット仏教はオイラトのグシ=ハンに要請してチベットを武力統一。その関係性を更に深めた。これに加え、チベット仏教は相変わらずモンゴル諸部からも信仰を集め、一大宗教勢力として成長していった。 #遊牧民の清朝国家論基礎

2012-06-06 21:31:18
遊牧民@インド遠征軍 @Historian_nomad

ごめんなんかたまに最期の『基礎』が抜け取る

2012-06-06 21:31:33
遊牧民@インド遠征軍 @Historian_nomad

このような状況においてモンゴルを支配下に組み込んだ清朝も、チベット仏教を無視することはできなかった。モンゴルを治めるには、彼等の信仰するチベット仏教を自らも重んじ保護する姿勢を見せなければならなくなったのである。 #遊牧民の清朝国家論基礎

2012-06-06 21:32:42
遊牧民@インド遠征軍 @Historian_nomad

これはあくまで政治的なスタンスの問題であって、清朝皇帝のチベット仏教への宗教的盲信を示すものではない。しかし、清朝皇帝がポーズか信心からかはともかく、その末期近くまでチベット仏教を保護・優遇したことは確かである。 #遊牧民の清朝国家論基礎

2012-06-06 21:33:59
遊牧民@インド遠征軍 @Historian_nomad

このような状況下でのハルハ・モンゴルとジューンガルのガルダンの対立は、清朝が新たな側面を持つ契機となった。即ち、ガルダンと清朝は自らの正当性を「ダライラマの意志に適っている」ことに求め、自らこそがダライラマの意志に沿うていると主張し合ったのである。 #遊牧民の清朝国家論基礎

2012-06-06 21:36:35
遊牧民@インド遠征軍 @Historian_nomad

つまり、清朝がモンゴルを統治する際には、彼等の信仰するチベット仏教をも保護する義務がある、とされたのである。この性格は、特に清朝とチベット仏教の庇護者の地位を争うライバルであるジューンガルが健在のうちはとくに重要視された。 #遊牧民の清朝国家論基礎

2012-06-06 21:40:28
遊牧民@インド遠征軍 @Historian_nomad

これは、当時の東アジア世界が、ただ「中華皇帝」であることだけで統御できなかったことを物語る。自らが内包する支配領域を統合するために、清朝は時と場合に応じてその正統性の拠るところを変えたのである。 #遊牧民の清朝国家論基礎

2012-06-06 21:42:22
遊牧民@インド遠征軍 @Historian_nomad

こうして生まれた清朝皇帝の側面が、「チベット仏教の庇護者」としての顔であった。それは、信仰とは無縁の、あくまで政治的な要求から彼等が身につけた性格であった。 #遊牧民の清朝国家論基礎

2012-06-06 21:43:21
遊牧民@インド遠征軍 @Historian_nomad

清朝は当初、自らに直接臣属していないハルハとジューンガルの対立を、あくまで仲裁して和解させようとした。しかし、ハルハとジューンガルは最終的に破局。ガルダン自らがハルハへ侵攻し、ハルハ諸部は雪崩を打って清朝領内に逃げ込み、清朝はこれを保護下に加えた。 #遊牧民の清朝国家論基礎

2012-06-06 21:45:12
遊牧民@インド遠征軍 @Historian_nomad

こうして清朝は内モンゴルのみならず、外モンゴルまでも支配下に加えた。となれば、自らの支配下にあるハルハの部衆を圧迫するガルダンは何としても撃退されなければならない。その際の正統性こそが、「ダライラマの意志に忠実である」という主張であった。 #遊牧民の清朝国家論基礎

2012-06-06 21:46:41
遊牧民@インド遠征軍 @Historian_nomad

だが、当時のチベットは清朝にとって必ずしも協力的ではなかった。三藩の乱では秘密裏に呉三桂と貿易を行っていたチベットは、なんとこのときガルダンを煽動していたのである。そもそもガルダンは、元をただせばダライラマ五世直々に教えを受けたチベット仏教僧であった。 #遊牧民の清朝国家論基礎

2012-06-06 21:48:48
遊牧民@インド遠征軍 @Historian_nomad

当時のチベット政府(ゲルク派総本山)の指導者は摂政サンギェ=ギャツォ。ダライラマ五世の信任厚き宰相であり、なんとダライラマ五世の死後十数年その死を秘して清朝・ジューンガルを操った怪僧であった。 #遊牧民の清朝国家論基礎

2012-06-06 21:50:07
遊牧民@インド遠征軍 @Historian_nomad

ジューンガルと清朝の戦いは一進一退であったが、ガルダンとその甥ツェワン=ラブタンの対立が先鋭化することで状況は一変する。すなわち、ツェワン=ラブタンはジューンガルの本拠イリを占拠して清朝に通好。ガルダンは遠征先で孤立したのである。 #遊牧民の清朝国家論基礎

2012-06-06 21:51:56
遊牧民@インド遠征軍 @Historian_nomad

この機を逃さず康熙帝はモンゴル高原への親征を決定。自ら率いる本隊はガルダンを補足しえなかったものの、西路軍が撤退するガルダン軍を補足してゾーン・モドにて撃破。これによって外モンゴルは完全に清朝の手に落ちたのである。 #遊牧民の清朝国家論基礎

2012-06-06 21:53:41
遊牧民@インド遠征軍 @Historian_nomad

これによって清朝はモンゴル高原を完全に掌握。しかしこれ以後、清朝と西のジューンガルは西南のチベット、そして清朝治下に入ったモンゴルをめぐる清朝最大のライバルとして激しくしのぎを削ることとなっていくのである。 #遊牧民の清朝国家論基礎

2012-06-06 21:55:27