遊牧民(@Historian_nomad)さんの清朝国家論基礎

遊牧民(@Historian_nomad)さんの、清朝国家についての連続ツイートです。 とりあえずまとめました。
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遊牧民@候選 @Historian_nomad

しかし、清朝とジューンガルが直接対立するまでは少しく間があった。ガルダンを追ってジューンガルのホンタイジ(部長)位についたツェワン=ラブタンは、清朝と和することを旨として行動したために、暫し両者の間では静かな緊張が続いた。 #遊牧民の清朝国家論基礎

2012-06-06 21:57:11
遊牧民@候選 @Historian_nomad

そしてこの緊張はやはりチベットをめぐり表面化する。青海ホシュート部、グシ=ハン末裔のラサン=ハンが摂政サンギェ=ギャツォの立てたダライラマ6世を廃位して新たな6世を清朝の後任のもと建てたことにより同族から反発を受け、チベットでは政情が不安定になっていた。 #遊牧民の清朝国家論基礎

2012-06-06 22:02:06
遊牧民@候選 @Historian_nomad

このような状況下、ラサンをよく思わない青海ホシュート王公がツェワン=ラブタンと結託。ツェワン=ラブタンは従兄弟の大ツェリン=ドンドブを指揮官として軍勢をチベットに派遣。ジューンガルの鉄騎兵六千はツァンタン高原の荒野を突破、チベットのラサを急襲した。 #遊牧民の清朝国家論基礎

2012-06-06 22:03:45
遊牧民@候選 @Historian_nomad

これに対し備えが万全でなかったラサンは戦死、彼が送った清朝への救援要請が届いたのはその死後であった。1717年のことである。翌年清朝はラサン救援の軍を送ったが、ジューンガル軍によって粉砕された。 #遊牧民の清朝国家論基礎

2012-06-06 22:05:54
遊牧民@候選 @Historian_nomad

事ここに至り清朝は重大な危機に陥った。チベットを放置することはできない。西のライバル・ジューンガルの支配下にチベットを放置すれば、モンゴル支配の正当性が揺らぐ。かといって、生半な兵力ではジューンガルを倒せない。危険な状況であった。 #遊牧民の清朝国家論基礎

2012-06-06 22:07:18
遊牧民@候選 @Historian_nomad

このような状況において、康熙帝は青海ホシュートのグシ=ハン一族を北京に招き、爵位と保護でもって自らの側に繋ぎとめることに成功。1720年、彼等の支持と「ダライラマの打ちたてたチベット仏教の正しい教えの回復」を旗印にチベットへ進軍する。 #遊牧民の清朝国家論基礎

2012-06-06 22:09:28
遊牧民@候選 @Historian_nomad

これに対しジューンガルは、ラサ占領後の掠奪や非ゲルク派寺院への弾圧などから人心を失い、在地勢力からのゲリラ戦に苦しんでいたためにチベットを放棄して撤退。清軍はラサに入り、チベットを制圧した。 #遊牧民の清朝国家論基礎

2012-06-06 22:11:29
遊牧民@候選 @Historian_nomad

こうしてチベットを再び押さえた清朝であったが、その際の支持基盤となった青海ホシュートは不満を持った。すなわち、ラサンに代わるハン位への冊封が一向になされなかったためである。康熙帝はチベット制圧の後三年にして死去、この問題はその子雍正帝の手にゆだねられた。 #遊牧民の清朝国家論基礎

2012-06-06 22:13:40
遊牧民@候選 @Historian_nomad

青海ホシュートは、雍正帝の即位と時を同じくして蜂起。これに各地のチベット仏教寺院も呼応した。しかし雍正帝は、川陝総督年羹堯に命じてこれを徹底的に弾圧して鎮圧。青海ホシュートのチベットに対する影響力を完全に排除した。これにより、青海は独立性を全に喪失した。 #遊牧民の清朝国家論基礎

2012-06-06 22:15:41
遊牧民@候選 @Historian_nomad

しかし清朝にとって受難が続く。青海を鎮圧した直後、清朝の後任の下成立したはずのチベットカロン(=大臣)政権内の政争が激化。親清派と目されていたカンチュンネーを他のカロンが暗殺したのである。 #遊牧民の清朝国家論基礎

2012-06-06 22:17:31
遊牧民@候選 @Historian_nomad

これに対し雍正帝は一時対応に苦慮したが、カンチュンネー麾下にあったカロン、ポラネーの奮戦を見て反カンチュンネー派の掃蕩を決断。チベットに再び兵を進めて彼等を撃破し、ポラネーをチベット政府の首班と定めた。 #遊牧民の清朝国家論基礎

2012-06-06 22:19:11
遊牧民@候選 @Historian_nomad

この間、チベットに侵攻したはずのジューンガル勢力はどうしていたのか。実は青海ホシュートが決起した際、彼等はジューンガルに協力を要請した。しかし、当時ジューンガルは清朝と講和交渉を開始しておりこれを拒絶。青海ホシュートはそれを確認せずに決起したのであった。 #遊牧民の清朝国家論基礎

2012-06-06 22:20:56
遊牧民@候選 @Historian_nomad

しかし結果として青海ホシュートを見殺しにする形となったことは、ジューンガルにとって不利益であった。同じオイラトの一部族であったホシュートの影響力が排除されたために、ジューンガルがチベットへ介入する口実が永遠に失われたのである。 #遊牧民の清朝国家論基礎

2012-06-06 22:21:52
遊牧民@候選 @Historian_nomad

更に続くチベット内におけるカロン対立の結果、ポラネーがチベット政府を掌握したことは致命的であった。ポラネーはジューンガルがチベットへ侵攻した際、それに対するゲリラ戦を指揮した、いわば反ジューンガル強硬派であった。 #遊牧民の清朝国家論基礎

2012-06-06 22:23:04
遊牧民@候選 @Historian_nomad

こうして、清朝はジューンガルと同盟し得る勢力をチベット・青海から完全に駆逐。更にジューンガルのツェワン=ラブタンが病死し、その後継をめぐり内乱があったとの情報を得た雍正帝は、ジューンガルを叩き潰し、後顧の憂いを完全になからしめんと決断した。 #遊牧民の清朝国家論基礎

2012-06-06 22:24:30
遊牧民@候選 @Historian_nomad

だが、万全を期し反対派を押し切って行われたこの対ジューンガル戦は雍正帝の思惑から完全に外れる。ジューンガルは西方のカザフ草原方面にも兵力を割く二正面作戦を強いられながらも、緒戦において清朝軍を撃滅。その鋭鋒を完全に挫いた。 #清朝遊牧国家論基礎

2012-06-06 22:28:04
遊牧民@候選 @Historian_nomad

清朝はまさかの敗戦に動揺、各軍に専守防衛を命じると共に戦線の再構築を目指すも、勝ちに乗じたジューンガル軍が清朝史は如何に入ったハルハ・モンゴルの牧地へ侵入。流れは完全にジューンガルにあるかのように思われた。 #清朝国家論基礎

2012-06-06 22:29:39
遊牧民@候選 @Historian_nomad

しかし、清朝側の将軍であったハルハ王公ツェリンがエルデニ=ジョーにてジューンガル軍を痛撃、ジューンガル軍を敗走させることに成功する。事ここに至り雍正帝は当初の方針――ジューンガルの滅亡を撤回、ジューンガルと再び講和交渉を始めることとなった。 #遊牧民の清朝国家論基礎

2012-06-06 22:31:13
遊牧民@候選 @Historian_nomad

この交渉は乾隆五年においてようやく成立を見、ここに清朝・ジューンガル間における平和共存の時代が到来する。この後十数年、清朝とジューンガルの間では交易が盛んに行われた。 #遊牧民の清朝国家論基礎

2012-06-06 22:33:26
遊牧民@候選 @Historian_nomad

状況が変化するのは1745年、ジューンガル部長ガルダン=ツェリンが没してからである。彼の没後、ジューンガル内部では部長位をめぐる内乱が続き、1754年、有力者アムルサナが清朝に投降して軍事介入を請うた。乾隆帝はこれを受け、ジューンガル平定を決定した。 #遊牧民の清朝国家論基礎

2012-06-06 22:35:20
遊牧民@候選 @Historian_nomad

1755年、ジューンガルへ向けて出征した清軍は100日の軍事行動によって部長ダワチを捕えこれを平定。しかしその後、清朝のジューンガル善後措置を不満としたアムルサナが決起すると、旧ジューンガル勢力がこれに呼応。再びジューンガルは混乱に陥った。 #遊牧民の清朝国家論基礎

2012-06-06 22:36:58
遊牧民@候選 @Historian_nomad

一旦降伏しながら我欲のために背き、自らの腹心を殺害された乾隆帝は激怒。叛乱したジューンガル部衆に対し徹底した殺戮を行って再度これを平定。これによってジューンガルの故地は無人の荒野と化したといわれる。 #遊牧民の清朝国家論基礎

2012-06-06 22:39:52
遊牧民@候選 @Historian_nomad

ただし、清朝は旧ジューンガルの人々を根絶やしにしたわけではない。ジューンガルと同じオイラトの部族であるドルベトやトルグートなど、反乱に加担しなかった部族は今も血脈を残していることは指摘されておかなければならない。数十万人が殺害されたのは確かであるが。 #遊牧民の清朝国家論基礎

2012-06-06 22:41:12
遊牧民@候選 @Historian_nomad

こうして完全にジューンガルを平定した清朝であったが、今度は南、すなわち新疆南部のムスリム住民の暮らすオアシス地域で動乱が起こる。ジューンガル支配下で虜囚の身にあり、清朝によって解放されたムスリム指導者、ホージャ兄弟が叛乱したのである。 #遊牧民の清朝国家論基礎

2012-06-06 22:43:02
遊牧民@候選 @Historian_nomad

乾隆帝はジューンガルに引き続きこれを平定、こうして清朝は旧ジューンガル領を全て新たな領土――即ち「新疆」としてその支配領域に加え、ここに清朝の、否、歴代中華王朝の最大領域が形成されたのである。 #遊牧民の清朝国家論基礎

2012-06-06 22:44:01