ヤノマミや発達障害と“我々”は連続しているのか:正常と異常の境界、言葉と因果的思考

現代文明とヤノマミ★2や発達障害★1との関係のやり取りの続き。 @gmax_jpさんからの返信、「‥正常と異常、健常と病的の境界は文化や社会が定めている」に対して、まとめ主@hijijikikiが滝川一廣『「こころ」の本質とは何か』を参照してのやり取り。 個人が直面する周囲の環境や社会的な条件によって、規範の編み目である共同世界へ上手く乗れるか、折り合いがつけられず、乗り損ねるか、“おくれ”があるために乗ることが難しい、などなどの各人の「わたし」の居場所(のなさ、見つけづらさ)がある。統合失調症と発達障害では、共同世界への折り合いのつけづらさと、乗ること自体への困難という違いはあるが、両者ともに共同世界への参入への苦肉の対応、適応の方策を強いられること、などなど。 ●追加しました。更に&また&更にまた&5回目の追加しました。 続きを読む
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桂木裕 @mayakima

発達障害や様々な障害の多くと、定型者や健常者と言われる人の間は「連続体」だとされる説が現在は一般的です。が、この連続しているという概念がうまく飲み込める人と、どうしてもわからない人がいるように感じるのです。だからなおさら、車椅子に座っている以外の障害者がイメージできない。

2012-08-31 09:01:34
ひじじきき @hijijikiki

私も発達障害と健常は、まとめhttp://t.co/QghtPDOvのように連続的だと思うのですが、”一般的”にそう思われているでしょうか?(続くRT @mayakima 発達障害や様々な障害の多くと、定型者や健常者と言われる人の間は「連続体」だとされる説が現在は一般的です。

2012-08-31 12:23:18
ひじじきき @hijijikiki

@hijijikiki @mayakima 続1)正統精神医学に批判的な精神科医の高岡健氏でさえ「自閉症スペクトラムという言い方があるくらいですから、定型発達との間に明確な境界線がないという理解を私はとってきましたし、多くの児童精神科医もそういう視点だろうと思います。

2012-08-31 12:31:32
ひじじきき @hijijikiki

@hijijikiki @mayakima 続2)ところが、定型発達者と、それから自閉症を中心とした発達障害の人との間に、明確な境界線があるかのような形での議論が、後を絶たない。」『発達障害という記号』p27と述べているように、スペクトラム=連続であることは一般的ではないのでは?

2012-08-31 12:36:39

■以下は、滝川一廣『「こころ」の本質とは何か』からの抜粋です。上掲のまとめ中の引用ツイートは、この抜粋の一部分です。


滝川一廣『「こころ」の本質とは何か』(ちくま新書)

正統精神医学と力動精神医学

●1.「私のスタンス」として、「…人間学的精神病理学の立場。…精神障害を…いわゆる正常な「こころ」のあり方とは異質なものとして切り離してとらえるのではなく、人間の精神現象のうちにはらまれている可能態として連続的にとらえる立場」p18
●2.精神医学は「正統精神医学」と「力動精神医学」の二つの流れがあるとして、「この二つの大きな流れが絡みあいつつ、対立しあい、かつ補いあって発展してきた」p19と述べる。
●3.「正統精神医学は、…脳の生物学的な仕組みにおいて理解しようとする」p19「力動精神医学は、失調を「こころ」そのものの問題として、できるだけサイコロジカルな、心理・社会的な仕組みにおいてとらえようとする…直接にはフロイトの精神分析をルーツとしています」p19-20
●4.「正統精神医学では、人間は本来的に合理的だという見地に立ちますから、「正常」と「異常」との境界をはっきりさせようとします。合理(正常)と非合理(異常)の間にはなんらかの質的な絶対差があって、非合理なものは「障害」であるはずだという考えですね。」p24
「これに対して力動精神医学では、人間は本来的に非合理だという見地に立ちますから、「正常」と「異常」とを峻別しないで、むしろゆるやかな連続性のうえで理解しようとします。その点では、人間の「こころ」になにがおきても驚かない、というところがあります。
 たとえば昨今の少年事件で「ふつうの子」が「とんでもないこと」をしでかして!という驚き方がよくされますでしょう。「ふつうの子が危ない!」とか。これは「正常(ふつうの子)」と「異常(とんでもないこと)」とを別次元のものとしてとらえるところから生じる驚きや危機感ですね。」p24
「力動精神医学ではそのような驚き方はせず、それも人間にはありうることだ、まして成長途上の未熟で無分別な子どもなのだからなにをしでかしても驚くにはあたらぬととらえ、そのうえでそのような事件も引き起こしうる人間の「こころ」とはなにか、「こころ」の成熟・未熟とはなにかを考えようとします。」p25-6

統合失調症

●5.「人間のこころのはたらきには、なにごともできるだけ「意味」や「関係」(因果)を見いだそうとするところがあります。私たちは無意味や偶然には耐えられない存在」p61「人間は「意味」と「関係」(因果)という枠組みを用いることで外界と内界とをはじめて統合的に秩序づけてとらえ、それによって社会的に生きています」p61「…統合させようと無理やりにでもなんらかの「意味」や「関係」へと向かわせるバイアス…自体は私たちのこころが必然的にはらむ志向性で、「病的」なものではありません。そのバイアスによって、関係づけのほうが前にでれば「関係念慮(自己関係づけ)」意味づけのほうが前にでれば「妄想」」p62
●6.「幻聴」の生じる機序として、「ひしめきとざわめきのなかで翻弄され続ける状態には、人間は長くは耐えられません。意味なき意味が乱舞し続ける状態がもっとシンプルで一義的な「意味」へと、つまり「言葉」へと何とか収束してくれれば、日常我々が親しんでいる認識体験に少しでも近いものになってくれます。「言葉(声)」になってくれれば、…とりあえず外からのものとして対象化もできます。」p58
●7.「統合失調症の妄想は、けっして浮世離れした非社会的、非現実的なものではなく、むしろ、みずからの体験に社会性(共同性)をはらませようと努めた結果の、その意味できわめて社会的で現実的なモチーフを離れないもの」p64

「精神遅滞」

●8.「数学も言語も規範(約束・ルール)からなっていますね。このように私たちの認識の世界は、長い歴史をとおして編み上げられた有形無形の約束やルールの編み目から構成されています。こうした規範の編み目を共有することによって、個々の脳の内側に生起する認識が個々の脳を超えて社会的に共有可能なものになるのです。村瀬さんはこうした共同的な認識世界を<範の世界>と名づけています。‥すでに歴史的に長大な時間をかけて‥現在に至った社会的・文化的な(つまり規範的な)認識の世界を、生まれてきた子どもはほとんどゼロから遅ればせにキャッチアップしてゆくわけですから、‥認識の発達とは「おくれ」を必然的にはらむのであって、一方に遅れない正常な子がいて、他方に遅れる異常な障害児がいるというわけではない。誰にとっても理解(認識)とは「おくれる」のだと村瀬さんは主張」p92-3
●9.「(精神遅滞の子たちの世界は)とても不安が高い世界‥まわりの大部分の人たちは理解でき、対処できている世界を、自分(だけ)は理解しきれず対処しきれないまま、でもそこを一緒に生きねばならないからです。世界はこの子たちの認識レベルにあわせられてはいません。おくれをもつ人々へのもっとも大きな誤解は、ものごとがわからないから苦労知らずに無心で無邪気に生きられるだろうというものです。正反対ですね。安全感をもつのにむずかしく、むしろ人知れぬ苦労のなかを生きています。」p99
●10.「この不安の高さは、こだわりの強さとしてもあらわれてきます。‥理解しきれず対処しきれない世界をなけなしの力で生活してゆくとき、自分がすでになじんで安心できるパターンやシチュエーションに固執し、未知のパターンや慣れないシチュエーションを極力避けるのは、ごく自然な知恵です。これが強い固執やこだわり、頑固さの姿をとって現れてくる」p100
●11.「裏返せば、発達のプロセスとは、個々人の感覚器官が直接に感受したまま世界を個的に体験してゆくこころのはたらき、つまり感覚の直接性を、しだいに背後に退かせてゆくプロセスということになります。そのぶん、意味や関係を通して世界を共同的に体験することが可能になるわけです。ところが、遅れのある子どもたちは、そこに遅れるため、感覚の本来もつ直接的な体験世界、個的な体験世界をずっと前面に残していることになります。
 ‥プリミティブな感覚的な遊びへの没入ぶりです。‥私たちの目にはそういう遊びは無意味で強迫的な反復に映り、ときには「常同行動」といった症状名を与えたりします。
 ‥私たちも、こうした感覚の直接性を享受できないわけではありません。‥「意味」を通してものごとにかかわる方向へとこころの世界を発達させてきたため、‥「意味のない」感覚刺激には、私たちはじきに飽いてしまうようになりました。音楽や映画を楽しむのは「鑑賞」で、蛇口の水や紙破りを楽しむのは「常同行動」とは、すでに「意味」を介して世界とかかわることが常態となっている私たちゆえの区分けなのです。」p102-3
●12.「おくれをもつ人たちは、そうでない人々にくらべたとき、ずっとわが身ひとつで世界に向かわんとしている人たちにみえます。その意味でとても「自立」しています。知的なハンディゆえに「依存的な存在」「非自立的な存在」と決めつけては精神遅滞への理解をあやまつでしょう。認識のおくれゆえに社会的な意味での生活の自立(自活)にはハ-ドルが高くても、こころのありようとしてはむしろ自立した(しすぎた?)ありようを大きくもったひとたちではなかろうか」p107-8
●13.「この(おくれをもつ)子どもたちは世界の認識的な共有に遅れ、私たちと同じしかたでこの世界を享受することにむずかしさがあります。‥かれらは自分なりのしかた、自分にできるしかたで、この世界をなんとか享受しようと奮闘しています。ところが、その奮闘は、わたしたちの社会規範からは逸脱や迷惑や触法行為とされてしまう。ときとして、そんなことが起きます。」p108
●14.「こころの個体性と共同性との矛盾を統合失調症の病理の根っこにみてきましたが、認識のおくれをもつ子においては、その矛盾はこんなかたちで現れてくるのです。発達の相対的な差にすぎず、けっして例外的な異常現象ではないおくれが、私たちの高度に社会的な共同世界をつくりあげ、そこをともに生きている現実のなかでは、このような大きな矛盾を生まざるをえない」p109

自閉症

●15.「高機能自閉症のうちに青年期に幻覚妄想など統合失調症様の症状を示す例が報告されるようになります。‥当初カナーが着目した両者の類似性は無視してよいのか、本人の側から見た心的な体験のあり方として何らかの共通性が潜むのではないか‥「自閉的孤立(社会性の障害)」を基本的な症状とみるカナーの考えのほうが、妥当だったのではないか」p144
・現代の自閉症理解の壁
●16.「ラターからホブソン、バロン=コーエンまで、理論の筋立ては同一‥自閉症に特徴的な能力の落ち込みを検査から「実証」し、それを自閉症固有の能力欠陥と「解釈」します。‥病因にじかに結びつけ、それに対応する障害部分が脳にあると解釈します。」p150
●17.「子どもが「人にはそれぞれ<考え>がある」と知り、その<考え>を状況や前後のコンテキストから推測できるようになるためには、なにが必要でしょうか。脳に障害さえなければ、おのずとできることなのでしょうか。‥精神発達の構造を考えるかぎり、そんなことはありえません。人間のこころの世界は、個体の外にひろがる共同的な関係世界を本質としており、その共同世界を獲得してゆく歩みが精神発達です。個体の脳の内側だけでは他の人と社会的に共有できる認識や行動の獲得は不可能でしょう。既にこころの世界の共有をなしとげている大人たちとの不断の交流があってはじめて、生まれ落ちた子どもは共有可能な、すなわち共同的な認識のあり方や行動様式をみずからも獲得してゆけるのです。」p151
●18.「‥感覚器官が生理学的にとらえたまま感受するのではなく、そこからある側面だけをとりだして人為的にとらえるのが「抽象」と呼ばれるこころのはたらき‥差異は切り捨て、なんらかの共通性をとりだしてひとつのものとして括りだすのが「抽象」で、そのようにしてとらえた内容が「概念」‥私たちの「抽象」の仕方は社会的文化的なルール(規範)によって方向付けられます。それによって私たちはまわりの世界を共有でき、自分たちを高度に共同的(社会的)な存在としているわけですね。この規範にあたるのが「言語」にほかなりません。」p154
・自閉症の本質とはなにか
●19.「関係の大きな遅れが、「広汎性発達障害」という総称が与えられるような、認識の領域から社会性の領域にいたる広汎な発達の遅れをもたらすのは、人間の精神機能が個体の外にひろがる社会的文化的な共同性を本質としているため‥精神機能の獲得(発達)には‥その精神機能をすでに獲得している人たちとのじゅうぶんな関係が不可欠」p157
●20.「六十年代の環境論的研究は、未整理ながら、こうしたこころの構造のもつ共同性・関係性へ目を向けて自閉症を解明する糸口にいたる芽をはらんでいました。残念ながら関係性という双方向的なものを養育者の側、環境の側からとらえるにとどまり、子どもの側からもとらえて真に「関係性」として検討を深めるより前に芽をつまれて前面廃棄されてしまった」p157

 


滝川一廣氏の「発達スペクトラム」について、

日本福祉大学福祉社会開発研究所『日本福祉大学研究紀要-現代と文化』

第120 号2009 年12 月
のp40-42から引用:

「発達障害」概念の政策対象化と問題構制

                    小坂啓史

http://research.n-fukushi.ac.jp/ps/research/usr/db/pdfs/00024-00004.pdf

  ....(省略)....

滝川によれば, 「発達障害」の本質とは精神発達の歩みの「遅れ」に他ならないとする(滝川
2008:46). つまり, 精神遅滞は認識(知的理解) の「遅れ」, 広汎性発達障害は関係(社会性)
の「遅れ」, 特異的発達障害は特定の精神能力の発達だけが取り残されて「遅れ」るもの, 注意
欠陥多動性障害(ADHD) は注意集中困難・多動・衝動性という乳幼児の行動特徴をもち続け
ているというかたちでの発達の「遅れ」, というようにである(滝川2008:46-47).
語義的にみても「発達障害」は「発達」が「障害」を被っていること, つまりは「発達」が
「遅れ」ていることを指すと考えられることからも, 以上の見解は把握しやすいものであるが,
http://twitpic.com/8gvvcz

ではこの「精神発達」の歩みそのもの
については, どのようなものと捉えら
れるのであろうか. この点について滝
川は, 図1 に見られるように「認識
(知的理解) の発達」と「関係(社会
性) の発達」の2 つの発達軸をもち,
この両者がお互いに支えあって進むも
のが「精神発達」であるとしている
(滝川2008:52-53). 我われはみな,
この図におけるZの矢印方向に沿った
かたちで楕円状に分布する(図1 にお
ける, 破線の楕円内) どこかの位置に
いるのであり, 関係発達が平均水準か
その近くまで届きながら, 認識発達が
平均に大きく届かないところに位置するものを「精神遅滞」, 認識発達も関係発達も平均に大き
く届かないところに位置するものを「自閉症」, 認識発達は平均あるいは平均以上だが, 関係発
達は平均に届かないところに位置するものを「アスペルガー症候群」, 「自閉症」と「アスペルガー
症候群」の間に位置するものが「高機能自閉症」としている(滝川2008:53-54). つまり, 「す
べては精神発達の連続的分布のうちにあり, 互いにつながりあっていて, どこからがどれと線が
引けるものではない」(滝川2008:54). 結局, 「発達障害」という「診断」は人工的なもの, 任
意なものであるためその範囲もいくらでも拡張しうることになり, その「線引き」は社会的な判
断によってなされるということになる. 従ってその意味では, 「発達障害とは社会の関数で, 私
たちの社会のありようとその社会を生きる私たちの姿を映し出す鏡」(滝川2008:55) であると
している.
こうした見解は他にも出てきており, 例えば心身障害児施設の現場経験をもつ村瀬学による見
解においても, 「知的世界」からの「おくれ」は「ちえおくれ(=知的障害)」とされ, 「社会機
構」からの「おくれ」は「自閉症」と「診断」されてきたとし, こうした「おくれ」に関しては,
文化や文明を創ってきたものの側の尺度によって「問題」視されてきたとする(村瀬2006:224).
つまり, 「おくれ」が存在するかどうかということではなく, 社会の側の状況によって問題とさ
れたりされなかったりすることそのものに問題があるのだということであり, さらにいえば実は
個人という存在は, 文明のシステムから常に「おくれる存在」として生きてきたということさえ
いえる, と指摘する(村瀬2006:224).
以上を踏まえると「発達障害」とは, 社会の「発達」という集合表象に依拠した社会的な関係
性の中で, それがその直線的な方向性に一致したものではなく, さらにその速さにも一致しない
とみなされることで問題として現象化したものであり, こうした状況を個人のレベルに即して精
神医学の立場から概念化されたものなのだ, ということがいえるだろう. つまり, 社会状況から
の逸脱として捉えられる個人的状況(とみなされるもの) が, 医療的枠組に組み込まれていく事
態の進展, つまり「逸脱の医療化」(Conrad & Schneider 1992=2003) という社会変動に即し
たかたちで, 「発達障害」概念も生まれてきたという説明が成立しうる. 「発達障害」に含まれる
個々の内容は, 社会の「発達」というベクトルからは逸脱しているという意味で, 共通した「障
害」とレイベリング(labeling) され一括りにされる. これが「発達障害」という一般概念の導
出に繋がる道筋である, ということがいえるであろう.

....(省略)....
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上記抜粋部分での引用文献:

★滝川一廣, 2008, 「『発達障害』をどう捉えるか」松本雅彦・高岡健編『発達障害という記号』批評社, 44-56
★村瀬学, 2006, 『自閉症-これまでの見解に異議あり!』筑摩書房

  


「反精神医学」 http://www.arsvi.com/d/m01a.htm から引用。

滝川 一廣・小澤 勲 対談 「情動・ことば・関係性」

◆滝川 一廣・小澤 勲 20060501 「情動・ことば・関係性」,小澤編[2006]*
*小澤 勲 編 20060501 『ケアってなんだろう』,医学書院,300p ISBN: 4-260-00266-X 2000 

 「小澤――個体のほうへ求めすぎるのでなく」ということですね。それまで本人のさまざまな問題だけを追究してきたけれども、その人がどういう暮らしをしているかによって、不自由のあらわれ方が全然違うんじゃないかと。
 滝川――反精神医学の場合、本人の外にある環境の捉え方が少し狭いという感じがします。政治的環境、あるいは経済的環境といったものに限定しすぎているので、それを推し進めていくと窮屈な一種の倫理主義になってしまったり、政治主義になってしまって、身動きがとれなくなってしまう。
 小澤――そのとおりです。
 滝川――私たちのこころの働き自体が、社会的・共同的なもので、その社会的・共同的な模気をヒトという個体が脳の中で一生懸命やっているわけだから、そこにはやっぱり無理もある。その無理の結<0078<果として精神障害という、ある”在り方”が生じてくる。そういうふうに広げて考えたほうが、いいんじゃないでしょうか。」(滝川・小澤[2006:78-79])

 「小澤――それまでは精神医学に対して「こんなことを考えていたら、患者さんのこころからどんどん離れていくじゃないか」と思っていたんですが、中井先生の本を読んで「こういうふうにていねいに見て、それを言葉にすることが本人へのやさしさに結びつくんやなあ」と思ったんです。
 ぼくが洛南病院にいたときに、週一回、みんなで集まって読書会をしていたんですよ。最初は『反精神医学』だとかクーパーだとかを読んでいたんですが、あるとき中井先生の本を読んで、そのあたりからだいぶ気持ちが楽になりましたね。」(滝川・小澤[2006:93])

 

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