江戸時代からの元号について

江戸時代からの元号についてまとめました。
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@miohiroko

→時代に逆行している。実権が江戸幕府にあった時でさえ、朝廷側の人間が決め、その提案者が公表されている。ましてや明治以降は単一政権。その責任において関係者を明らかにするのは義務であるが、何を恐れてか、提案者、決定権者とも国民には示さないことになっている。

2012-10-21 11:12:54
@miohiroko

0500[元号]明治。明治以降、一つの元号は一人の天皇とともにあり、その天皇が崩御されると諡号(しごう。諡はおくりな)としてそのまま用いられることになった。これにより、元号は天皇と不可分の関係となり、国内外でどんな災害や動乱、慶事があっても元号を変えて気持ちを新たにすることが→

2012-10-21 11:19:09
@miohiroko

→できなくなった。数年間隔でやたらに変わるのは事務など国民生活に支障をきたす、ということが現在よく聞かれるが、明治が制定された時はそのような考えは示されておらず、現在のほうが元号は深く食い込んでいることによる考えと言える。

2012-10-21 11:22:16
@miohiroko

0501[元号]大正。たいしょう。大正天皇即位により改元。勘申者は非公表。出典は易経。臨卦の「大亨以正、天之道也」(大いに亨(とほ)りて以て正しきは、天の道なり)から。「大正」は過去に4回候補に上がったが、5回目で採用されたという。

2012-10-21 18:30:41
@miohiroko

0502[元号]大正。公開された大正天皇実録により、この年号選定の経緯が詳細に判明した。元号案として「大正」「天興」「興化」「永安」「乾徳」「昭徳」の案があったが、最終案で「大正」「天興」「興化」に絞られ、枢密顧問の審議により「大正」に決定したという。

2012-10-21 18:33:16
@miohiroko

0503[元号]大正。案を見ると「興」や「徳」といった字が複数あり、国として世界に興隆する、天皇の偉大な徳を広めようといった意味のものが多く、元号と国家の方針が過去にないほど強くこめられている。この大正は興と徳の意味が両方具わっており、なかなか勇ましいものと言える。

2012-10-21 18:38:27
@miohiroko

0504[元号]昭和。しょうわ。昭和天皇(当時は皇太子裕仁親王)踐祚により改元。勘申者は公式には非公表だが、考案者は漢学者の吉田増蔵という。出典は書経。江戸時代の明和と同じく「百姓昭明、協和万邦」から採った。

2012-10-21 19:00:06
@miohiroko

0505[元号]昭和。昭和は、旧皇室典範と登極令による制度での最後の元号であり、同時に元号法で改めて制定された最初の元号。本来なら改元すべき所だが、天皇と元号を一体とさせる方針を踏襲したため、昭和が継続された。

2012-10-21 19:06:59
@miohiroko

0506[元号]昭和。宮内省作成の元号案として「神化」「元化」「昭和」「同和」「継明」「順明」「明保」「寛安」「元安」があったが、数回の勘申の結果、「昭和」を候補とし、「元化」「同和」を参考とする最終案が決定した。

2012-10-21 19:12:10
@miohiroko

0507[元号]昭和。この元号は過去最も長く続いた(64年。実際の年数は62年余)。世界の元号でも最長。先述のように、昭和を元号と定める根拠が途中で変わっていること、更に終戦を境に国家の在り方が転換したことなど、改元の機会はあったが、すべて見送られた。

2012-10-21 19:25:21
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