- nightmere666
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松平元康が朝廷から徳川姓を賜り、徳川家康にクラスチェンジした日におはようございます。同時に従五位・三河守も叙任さており、独立間もない頃から朝廷工作を重視した家康の政治力が伺えます。
2013-02-08 08:41:07この家康の行動は典型的な下剋上だと考えます。朝廷の権威と直接の繋がりを持つことで、主君である今川家の権威を克服した。武力行使だけが下剋上ではないことを示す事例だと思います。
2013-02-08 08:45:39よく考えたら若狭時代の丹羽の話は大減封されたことしか知らないし丹羽時代の長束の男前な話は前にしたし京極時代の若狭の話でもするか。(主旨が変わった)
2013-02-08 08:57:06「若狭時代の丹羽の話」なら若狭統治時代の丹羽家中の話になるし、「丹羽時代の若狭の話」なら丹羽家統治時代の若狭国の話になるし、日本語って柔軟やけど難しいね。
2013-02-08 09:01:23織田信長の同盟者として真っ先に名が挙がる家康と長政。しかしまぁ、両者の立場というのはまったく違うわけでありまして。結論から言いますと家康は政治力を駆使して勢力を拡大し、長政は政治力に飲み込まれて滅びたということで今日のテーマは『政治力』です。
2013-02-08 12:52:22細かい経緯は省略しますが、1562年に尾張の織田家と三河の松平家の間で軍事同盟が締結。いわゆる『清洲同盟』です。その翌年、松平家当主・元康は今川義元からの偏諱を捨てて「家康」と改名しました。
2013-02-08 12:52:39織田家は美濃攻略に専念したい、松平家は今川家からの独立を果たしたい、そんな両家の思惑が一致しての対等同盟は次第に従属同盟の形に変わっていくのですが、それでもこの同盟関係は20年も維持され、当時としては非常に稀有な例といえるでしょう。
2013-02-08 12:53:00で、1566年に松平家康は『徳川家康』と改め、三河守を叙任。つまり、「三河の国主である」ことが正式に認められました。これが家康単独での発想だったのか信長の口添えがあったのかは分かりませんが、わたしは家康単独でのことだと考えています。
2013-02-08 12:53:17というのは、家康が三河守になったことで同盟者である信長は三河に手が出せなくなった。ゆくゆくは臣従させて取り込んでしまいたかったところ、公的に認められた三河国主である家康に対して大名として接する他なかった。家康が自身の立場を明確にするための策であったと思うのです。
2013-02-08 12:53:43ここが家康と長政の違い。大名としての公的な立場を築いた家康と、一地方の国人領主の盟主でしかない長政。しかも浅井家は公的には京極家の被官という立場から脱却できておらず、家督相続のゴタゴタで家中の統制も乱れている。そもそもの立ち位置が違うのです。
2013-02-08 12:53:59では、長政というか浅井家が朝廷工作をして正式な近江守もしくは近江守護などの地位に就けたのかというと、それは無理な相談なわけでして。京極高清が近江守護であった時期に家ごと乗っ取るか守護代の地位くらい得ていれば違ったかもしれませんが、近江独特の事情もあります。
2013-02-08 12:54:17京極家と六角家という巨大な一族が並び立つ近江では守護と守護代を両家で持ち回るような状況も生まれており、他の家が踏み込める余地はありませんでした。つまり、長政は近江を地盤している時点で詰んでいたわけで、生まれた場所が悪かった。
2013-02-08 12:54:41もちろん武力による実効支配は可能だったわけですが、その武力が足らなかったというオチです。で、その足りない分を織田家の力を借りて実現しようとしたところ、あっさりと六角家が駆逐されてしまった。浅井家が近江を支配できる可能性が今度こそ断たれたのが信長の上洛だったと考えます。
2013-02-08 12:57:06徳川家康と浅井長政の話の続きな。実はここからが今日の本題、「徳川家康が何故、三河守になれたのか」です。その問いに徳川姓への改姓が関係します。
2013-02-08 18:31:09この『徳川』という姓は新田義貞の四男を祖とする「得川」に由来するとされており、かつて得川氏が藤原氏を称していたことを根拠に藤原氏の末裔である家康(但し、自称)が徳川姓を名乗る正当性があると主張。それを朝廷に認めさせました。
2013-02-08 18:31:39また、新田氏自体は清和源氏の正当な氏族であり、そのことから得川氏が「清和源氏・藤原氏の両方の流れを汲んでいる」ことも暗に主張していたのかもしれません。そうして、家康は源氏もしくは藤原氏から任じられることが多かった三河守への叙任を果たしたのです。
2013-02-08 18:32:07その主張がこじつけであれ何であれ、朝廷が認めたわけですから家康はもう自称ではなく正当な藤原氏の氏族。堂々と出自の良さを主張できるようになり、それが伏線となって征夷大将軍への就任に繋がるのですが長くなるので以下略。
2013-02-08 18:32:22では、浅井長政が近江守になれる方法はあったのかというと、これはもう京極家を乗っ取るしかなかったと思います。しかし、近江守叙任の事例は六角家から断続的に見られる程度で、仮に京極家の乗っ取りに成功したとしても可能性は薄いかもしれません。
2013-02-08 18:34:22それなら幕府役職である近江守護ならどうか。こちらは京極家からも多く任命されており、乗っ取りさえ成功すれば可能性は高い。しかし、そうやって新・京極家として看板を変えた浅井家が近江守護になったとして、それは果たして浅井家なのか。
2013-02-08 18:34:35結局ですね、亮政・久政が「京極家という傀儡の権威の下で実質的な支配権を得る」手法で地位を築いてきた浅井家は、その方針から自らが公的な権力になることを選択しなかった。それに加えて、強い力を持ち続ける旧来の守護大名が複数存在する近江の特殊な事情が邪魔をした。というところかと。
2013-02-08 18:40:51それを覆すのは大きな政治力。そして、家康に舞い込んできたようなチャンス。仮に六角義賢が何かの戦いで戦死する事態になっていれば、それはチャンスになったかもしれない。1560年代の六角家は積極的に畿内のゴタゴタに武力介入しているので、その可能性はあったわけなので。
2013-02-08 18:41:21こういった話をすると家康が運だけというような反応が出てくるのだが、運良く主君の今川義元が戦死した後、運良く西三河の諸城を攻め落とし、運良く叔父が織田家と同盟していて、運良く自身も織田家と同盟を締結し、運良く三河守を叙任した。そうだね、運だけだね・・・って、アホか。
2013-02-08 18:42:19