【シューニャリアーナ哲学】享受とはなにか (N次議論その⑦)
- L_O_Nihilum
- 1997
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何故か。えっと、別の方向からのキーもある。⇒『消費=観念的行為』Byボードリヤール だから。
2013-02-12 23:22:33消費が観念的行為だから定義づけられるイメージを持つ概念としてこれを扱えるんですよね。っていう。
2013-02-12 23:23:04イメージで満たされて終わり。だから消費。意味が広がり過ぎたとはいえ、欲求に終わりが無く、満たされる停止が存在しない(ために、イメージだけになっており中身の内包化が停止している)ということを、消費論ないしその論者がつねに意識しているとすれば⇒
2013-02-12 23:27:12尚又、その消費論者ないし論が、そこに貨幣的消費行動、経済への貢献活動としての観念消費を(要するにビジネスモデル呈示を)前提していると仮定すれば。
2013-02-12 23:28:04その理論はあらゆるものが、観念化できるイメージにして、消費対象(つまり中身無く過ぎ去っている、「取りつけ、取り外されている」対象)を明らかにし(つまり快楽コードとかアレだね)、それを定義して論じている諸活動だと言う事が出来る。
2013-02-12 23:29:17ド早い話、「今売れてるのはこういうコード構造のものです」って言うだけ。建設的かというと、『建設的』である。つまり、『建設』的で、Vorstelung的。タテモノ的に、享受者の活動のうち消費されて動いている運動を経済的システムのパーツとして論じているということになるわけだ。
2013-02-12 23:30:35つまり、観念というもの(Idee)なんだから、きまった形は無いし(あるとしてもコンテクストだけだろう)、過ぎ去ってしまうから去って無くなれば時代が終わった事の基準点にもできる。そして、時代が変わったら新たな消費論で仕事が出来る。
2013-02-12 23:31:44そして、「観念的行為」である消費、という概念によって提示された消費対象と、そこでコード分析化されてでてきた観念の表示対象(?)は、一対一対応している(お前は何を言っているんだ)。
2013-02-12 23:32:51えーっと。だから、「消費」というカタチで「享受」されているもの(のうち限定された方)と、その限定された方をコード分析した当批評概念、は対応する、ってこと。(当たり前じゃね?)いやいや違う。と思う。
2013-02-12 23:34:02つまりAKBのフォーマット消費ならば、フォーマットへの参加、ってことと、フォーマットと言う批評概念(コード分析概念)が対応する。違う言葉で言い換えることが出来ない。その決まった言葉で文脈に差し込むことが出来る。パズルになっている。
2013-02-12 23:35:52消費論の諸コードは、パズルのピースとして使えるってことか。要するに。コンスタティブな命題証明、って言ってたけどそういう事だよな。
2013-02-12 23:36:29一方享受の場合はそのヘンが大きく違う…ていうか享受の側の特徴をそっから見てくと、奇妙な性格に気付く。
2013-02-12 23:36:55まず観念的行為ではなく、同時に観念でもない。(つまりさっき言った消費における対応性が無い。これと比較でああ言いたかった)
2013-02-12 23:37:30観念でないってことはイメージできない。そして、受け取られカタチになっているので…という意味でこちらもピースには出来るが、そのピースは「享受」という概念のピース【じゃない】(←!!)。
2013-02-12 23:38:33享受活動をしていくうえで、出てくる享受上の概念は、享受論のためのピースにならない。享受”によって”出てきた「何らかの」に対する、それ以前の、概念、一時的な、しかもその何等か自身から呼び起こされてきた概念でしかない。
2013-02-12 23:39:25つまり、「享受論」上の概念と、「享受した当のそれ」自体が、一対一対応、『しない』。超ズレまくっている。ズレることしかできない。ズレることしかできないから、享受論、という領域の理論は作れない(観念論とか唯物論とか消費論、認識論、というようなものとして作れないという意味)。
2013-02-12 23:40:45何故國分がわざわざ「疎外論」をやったか。疎外論からしかアプローチできないから。つまり「見落とされたもの」としてうっすらと、残りうるもの、残余としてしか呈示できないからではないか。
2013-02-12 23:41:20ここで、呈示できようができまいが、つまり享受という概念を定義づけられようがつけられなかろうが、実は《消費/享受(浪費)》ていう概念の基礎構造、二項対立的状況が消えるか、って言う問いが出てくるが、別に対立的構造が消えなくても、いい。
2013-02-12 23:42:38享受に関する哲学は、享受(したそれ)に関する哲学でしかない…その繰り返しで、どっかある一つ、あるかもしれないっていう一つを追いかけるしかない…(ていうか対象aに近いやつですねコレ)(←言語化できる以上「ない」とは言えない領域を残しざるを得ない。生成文法で言えばXバー)
2013-02-12 23:44:52https://t.co/IEfQ2JoD これは要するに、「AKBをXというコードで消費している」と分析したとき、AKBを消費している=AKBというコードが消費されている、と対応するという意味…なんだけどわかるかなぁ…。
2013-02-12 23:46:09∀「享受論」は出来なくても「フィーナ享受論」は出来る ていうかそういう享受論しかできない。 「ワンピース消費論」は「ワンピースにみられるXというコードの消費の論」にできるが、「ワンピース享受論」は「ワンピース享受論」でしかない(!!)。
2013-02-12 23:48:03