#榊メモまとめ。

榊原康政に関する色々。主に寛政譜と御系図から。
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伊織 @otiea_s

天正9年3月、前年から囲んでいた高天神城陥落。この城は武田と徳川の間で激しい攻防が繰り返された城の一つで、元々今川方の小笠原氏の居城。小笠原氏は徳川に下っていた。天正2年に武田軍に包囲され、織田家から援軍も出たが到着前に陥落。 #榊メモ

2013-05-19 14:08:52
伊織 @otiea_s

この時城を護っていたのは小笠原長忠。その従兄弟にあたる小笠原義信が康政の妹の夫。この縁組も、妹けっこう年いってない…?(未検証) 少なくとも永禄12年以降で、元亀3年には家伝に妹という文字が見えるわけで。父か母が違う妹って可能性はあるかー #榊メモ

2013-05-19 14:18:58
伊織 @otiea_s

で、高天神が武田側にわたってから数年、徳川は天正8年から兵糧攻めを行い、長いこと籠城していた高天神は武田勝頼からの援軍が来ずに落城。この時の城主は岡部元信殿。城兵はことごとく餓死か討死。織田側からの降伏を許してはならないという書状が残っている。 #榊メモ

2013-05-19 14:23:52
伊織 @otiea_s

最後の戦いでは籠城側が討って出て、この時康政は先登。首級41とある。全体でも首680ほど(信長公記調べ) #榊メモ

2013-05-19 14:26:26
伊織 @otiea_s

ついでに忠勝隊はこの時22。生涯にあげた首級の数は四天王で最多のはずだけど、ソースが出ないな。 #榊メモ

2013-05-19 14:32:15
伊織 @otiea_s

天正10年、小山城田中城からの古府中行き。勝頼殿自害によって出撃なし、殿、信長公、その他主立った家臣と共に安土へ。上洛、堺見物からの伊賀越え。 #榊メモ

2013-05-19 14:36:34
伊織 @otiea_s

伊賀越えでは川が増水してるのに真っ先に馬を乗り入れたりという話があるぐらい? 姉川といい、基本水には躊躇わずに入るほうだよなー。忠勝は通過する村の村長誘拐したり船威してぶんどってさらにぶっこわしたりしてるけど(笑) 多分一緒にやってそうだけど。 #榊メモ

2013-05-19 14:40:00
伊織 @otiea_s

伊賀越えから戻ってすぐ出陣準備を整えたけれど、11日に出陣の予定が大雨でずるずるのびて、結局14日に出陣、尾張まで出たところで山崎の合戦の連絡が来て帰陣。 #榊メモ

2013-05-19 14:42:54
伊織 @otiea_s

8月、新府で北条氏直と対陣の時、大須賀康高と共に豆生田の砦を攻めておおいに敵を破る。……って若御子の陣かな。兵力差がすごかったはずだけど北条がせめあぐねた。結果和議。 #榊メモ

2013-05-19 14:55:27
伊織 @otiea_s

この北条との和議の徳川代表者が井伊万千代。と補佐の木俣清三郎。北条のこの時のやりかたはあんまりよろしくない感じなんだけど、私北条の事情はよく知らないから、向こう側から見たらまた違うのかもしれない。 #榊メモ

2013-05-19 14:59:14
伊織 @otiea_s

御系図には和議のあと新府中に殿がいた時、久世三四郎がぴんちだから助けに行くって言われて出動したことになってる。これも先登かな。久世は横須賀衆のひとり。 #榊メモ

2013-05-19 15:03:04
伊織 @otiea_s

天正12年、織田信雄の求めに応じて出陣。いわゆる小牧長久手。小牧山城に入るべしと進言したのは康政。その後数日かけて小牧山城の大改修。といっても外側に堀を新たにつくったのが主な作業。 #榊メモ

2013-05-19 15:12:48
伊織 @otiea_s

秀吉殿が楽田に着陣、その大軍に向かって檄文をつくる。御系図には上意により、って書かれてるなー。この檄文が名文なので是非読んでほしいところ。 #榊メモ

2013-05-19 15:16:37
伊織 @otiea_s

名文すぎて後世の創作じゃないか言われるレベル。ま、御系図にあるからといって実際はわからないけれど。 #榊メモ

2013-05-19 15:21:26
伊織 @otiea_s

小牧長久手では先鋒。康政一番、康高二番、水野が三番。三好秀次隊を撃破したあと、追撃する兵をまとめきれずにいたら、堀隊にまちぶせされ敗れる。この時、勝利と敗北の報告を聞いて、本陣で喧嘩してる連中がいたはずだけど略(笑) #榊メモ

2013-05-19 15:29:59
伊織 @otiea_s

康政が本陣に戻った時、殿がその手をとって「汝ら敗北すと聞いてその存亡を知らざりしに、今つつがなく帰り来る事喜びこれに過ぎざる」と涙し、康政も「敗れた後死を決して戦わんとすれども、御旗を見て死するに忍びず恥を忘れて馳せ来たり、拝謝仕りける」と涙を流して言上す、ってこの主従 #榊メモ

2013-05-19 15:38:35
伊織 @otiea_s

そのあと井伊隊が出るのと一緒に再度出陣。おかげで小牧長久手合戦図にはかかれていないのである…… #榊メモ

2013-05-19 15:48:09
伊織 @otiea_s

天正12年5月、小牧長久手合戦は実は全体としては半年以上にらみ合いしてるような長期戦なんですが、竹ヶ鼻城の水攻めなど着々と尾張の城を落としている。このあたりの援軍に一度は忠勝が向かっているけれど、不首尾。 #榊メモ

2013-05-20 14:45:05
伊織 @otiea_s

この頃伊勢尾張の織田信雄の所領は大半攻略されつつある。そして長島城と清洲城の間にある蟹江城、ここを押さえられると伊勢と尾張を分断することになりお手上げ状態になる……ということで、滝川一益がここを調略で落としたのはさすがの手腕。 #榊メモ

2013-05-20 14:50:34
伊織 @otiea_s

しかしその報を聞いた家康公の動きもはやく、清洲から浴衣のままただひとり直政だけを連れて前線に駆けつけるという無茶をw #榊メモ

2013-05-20 15:02:19
伊織 @otiea_s

秀吉は蟹江の報をうけて尾張方面に本格的な攻勢をかけようとしていたが、それをさせる前に蟹江城は再度攻略される。滝川一益殿は退去。そういえばこの時康政は小牧で留守番ですね。たぶん。しまった長々と← #榊メモ

2013-05-20 15:08:03
伊織 @otiea_s

小牧長久手は信雄くんと秀吉殿との戦いではあったんですが、実際のところ尾張北伊勢の信雄くんの所領はぎりぎりまで攻略されてしまっていて、この後の和議は仕方の無いところだったかと。また勝手に講和したと言われてますが、徳川がそれを知らなかったはずはない。 #榊メモ

2013-05-20 15:11:24
伊織 @otiea_s

徳川がこの戦いで得たものは、太閤殿下に負けなかったという実績ですね。また自国では一度も戦っていない。本当はもう少し戦う気だったかもしれないですが、信雄くんの戦力が削られすぎてしまって不可能になった。秀吉側はうまく徳川を小牧山に封じ込めた、ともいえます。蟹江以外では。 #榊メモ

2013-05-20 15:14:57
伊織 @otiea_s

蟹江の後の桑名で水野殿が自分ちの奉行斬ってさっくり出奔してたりしますね。 #榊メモ

2013-05-20 15:19:20
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