「剣豪将軍」足利義輝は本当に剣豪だったのか?
今んとこ、当方が把握してるのはこの辺。【同日~数日程度】フロイスの手紙、言継卿記、【若干年月経った後】フロイス日本史、信長公記(元の記述)、【江戸初期】甲陽軍艦、宗矩の推挙状、【江戸後期以前】永祿記&細川両家記(群書類従)、【江戸後期】日本外史、【不明】足利季世紀(改定史籍集覧)
2013-11-11 03:29:24で、義輝の最期を紹介してるとこは、このうち、永祿記、足利季世記、日本外史辺りをミックスしてることが多いで砂。前2つはともかく、日本外史は司馬遼太郎とか山岡荘八辺りの歴史小説程度の認識でいた方がよさげなものなので、あんまり「歴史の紹介」に使うのはどうかしらん、とは思うのですけどねー
2013-11-11 03:35:19逆に、当日~数日後のほぼリアルタイムの記述はこんな感じ。【フロイスの手紙(現代訳)】「公方様は、火災と必要から、家臣とともに戦いはじめ、腹に一槍、頭に一矢、背に刀傷二つをうけて死した」 【言継卿記】「戦い暫しと云々。奉公衆数多討死すと云々。大樹午の初点御生害と云々」
2013-11-11 03:40:50まあ、物語性なんてのは皆無に等しい記述ですが、当日だとこんなもんであろうなと。あれこれの演出やら装飾が付くのは、関係者も亡くなって、誰も当時の事なんか直に知らなくなってからな訳で、よくあることと言えばよくあることで砂。
2013-11-11 03:44:17あと、一之太刀の伝授については、甲陽軍艦が出典のようですが、義輝だけではなく、義昭にも一之太刀を教授したという記述があって、微妙臭が。本朝武芸小伝にも同様の記述がありますが、「甲陽軍艦によると」とか書いてあるので、あんまり意味ない感じです喃。
2013-11-11 03:55:10なお、ト伝の弟子に細川幽斎や長宗我部信親がいるという話は、「天真正伝新当流兵法伝脉(脈)」(文久元年(1861))の辺りにありますけど、他にも結構な数の名前が上がってるので、本当に伝授したのかどうか、ちと怪しい感じで砂。
2013-11-11 04:09:06ふうん、足利義輝の伝説的剣豪ぶりも、ある意味「鎌倉の執権どのが猿楽にうつつを抜かして…」と同じ視線だったのか。QT @k_hisane @SagamiNoriaki 「兵法」という下卒技が流行し…権威あるはずの足利将軍まで、この技にかぶれた
2013-11-11 04:51:55まあ、その「義輝が剣豪である」とする説を支える史料が結構怪しいので、どうなのかなと。まあ、キャラは立ってるんですけどねー @gryphonjapan 足利義輝の伝説的剣豪ぶりも、ある意味「鎌倉の執権どのが猿楽にうつつを抜かして…」と同じ視線だったのか @SagamiNoriaki
2013-11-11 04:57:14でも自分も、足利義輝ってどんな人?と聞かれたら、この「床に刀を何本も差して、取替え取替え敵を斬り…」の話以外、なにひとつしらない(笑) @k_hisane @SagamiNoriaki
2013-11-11 05:00:50逆に言えば、最期だけは知られてるのです。だから、その最期を前提にキャラ立てされる訳で砂 @gryphonjapan でも自分も、足利義輝ってどんな人?と聞かれたら、この「床に刀を何本も差して、取替え取替え敵を斬り…」の話以外、なにひとつしらない(笑)@SagamiNoriaki
2013-11-11 05:04:45ですねー。当方もあれは好きな作品でアリマス。「風魔」もよかったですし。 @lockedkazuki そういう意味ではあくまでフィクションという前提ではありますが、宮本昌孝さんの「剣豪将軍」は面白く読めましたね。 @gryphonjapan @SagamiNoriaki
2013-11-11 05:22:26言うまでもないですが、江戸時代以前に将軍家の事を「将軍」と呼ぶことはあまりなく、大体が「公方」「大樹」「(足利将軍なら)室町殿」辺りなので、「当時、剣豪将軍と称された」なんてのは、創作もいいところで砂。正確な初出は不明ですが、まず戦後以降に作り出された呼称と考えていいだろうと。
2013-11-11 05:12:53参考として以下のまとめも追加。
「剣豪」という言葉も、現状分かっている限りでは、大正末から昭和初期の頃の造語の模様。
とはいえ、「じゃあ義輝は剣豪じゃなかったのか」というと、ここで出てくるのが宗矩が細川家宛てに書いた雲林院弥四郎の推挙状な訳で砂。そこに曰く『親ほくてん(塚原卜伝)弟子ニて、於上方ハ覚(光)源院(義輝)様・伊勢之国司(北畠具教)、此親以上ニ五六人ならてハ無之候』
2013-11-11 05:26:30若干年代は下がるとはいえ、「関係者だらけの身内の間で出された手紙」であるこの推挙状は、記述の信憑性がかなり高いと見ていいわけですよ。そこで、上方でのト伝の弟子の一人として義輝の名が挙がってる訳で、腕前はともかく、ト伝の直門だったことはまず確実だろうと言える訳で砂。
2013-11-11 05:37:26尤も、甲陽軍艦とか天真正伝新当流兵法伝脉(脈)とか見てると、何人いるんだこれっつーくらい名前が挙がってるので、「卜伝の直門として名が挙がってる=剣豪」とは言えんのですけどね。伊勢守にも剣を学んだという説もありますが、あれも兵法上覧と諮問に答えたのが拡大解釈されてるっぽいですし喃。
2013-11-11 05:44:40正味な話、義輝より家康の方が剣士としては腕が上なんじゃないかしらん、という気がしなくもない。何気に知られtませんが、家康も一之太刀を伝授されてて、こちらは印可状も残ってますし喃。そういう印象がないのは、そんな話が埋没するくらい事跡が多過ぎて、目立ってないというだけじゃないのかと。
2013-11-11 05:48:08家康が、自身、複数の流派を修めるほどの兵法熱心であるにも関わらず、「大将に剣の腕など必要ない」「自ら前に出て戦うなど大将のすることか」と言い放った逸話と比べると、その辺、尚更浮き彫りになる感じで砂。
2013-11-11 05:57:30それもあるかもですねー。まあ、家康が大将としての武勇と、一個人としての武勇を切り分けていたのも影響してるのかもですね。 @DaishiZeppelin 家康は肥満している印象が強くて、なかなか剣士のイメージがわきにくいのかもしれないですね。
2013-11-11 06:01:09「街道一の馬の乗り手」と皆が期待し、家康が乗馬でどう細い丸木橋を渡るか見ていたら、馬を降りたので大半はがっかり、通だけ「それこそ馬の名手だ」と感心した…という話と、家康の剣も同じなんですかね。「大名は不意の一撃をよければいい」も家康コンセプトでしたっけ? @k_hisane
2013-11-11 06:03:14ですね。だからこそ、その最初の不意打ちを可能な限り防げるように、というのを模索した結果、「無刀」の技を得た石舟斎の招聘に繋がったという訳で。 @gryphonjapan 「大名は不意の一撃をよければいい」も家康コンセプトでしたっけ?
2013-11-11 06:06:45@gryphonjapan 更に言えば、家康は祖父の清康を家臣の不意打ちで喪い、父を暗殺(これは諸説あるが)で喪ってるので、尚更に「まず自らの命を守る」ために兵法を研鑽した、という見方ができるかなと。その意味で、柳生系の新陰流の兵法思想は、もろに家康のニーズにマッチしてた訳で。
2013-11-11 06:09:48