- sakana6634
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衫(さん)について(正倉院遺物の復元図から)
ラフ。下着(内衣)としての衫。正倉院蔵師子衫など参考。半袖が描きたかったのね…。 http://t.co/UKYJmhp2Ej
2013-11-28 20:52:07『衫(サン)』は単(裏地が付かない)の衣の意で、本来は短衣であったらしい。汗衫(カンサン転じてかざみ)は汗取りの下着だったが、後世なぜ長衣になり(垂領のものも作られ)人前に出られるような上着にまで格が上がったのかは不明
2013-11-28 21:06:45参考:汗衫(かざみ)
※これは平安時代の女児のもの。同名で様式の違う物がいくつか存在するので紛らわしい。
前に描いたこれが荒いので描き直したいなあと思って。 盛儀と常の料でこれだけ形も違うと、名前が同じ(同源)なだけっていう気もしてくるなあ。そもそも『汗衫』の意義が(女児用に限らず)広いし… http://t.co/TF8dfzS7IJ
2013-10-10 23:14:40らくがき。童女の汗衫(盤領、盛儀)垂領(開襟)したうえ、唐衣みたいに?折り返してる。髪は襟に入れてしまい裾から出す。あげくびに着てるとちょっと御引直衣みたいだね http://t.co/l2UcVVHpkH
2013-10-10 22:59:33【過去ツイ補足】もとは、布製を「衫」、絁製を『汗衫』と言っていたらしい。「奈良朝服飾の研究」より。 同書には、武官の桃染衫、皀衫などは、夏にはその一枚で上衣に代えたのではとある。なお直衣の古称(或は唐名)は『襴衫』であり、初期には短衣の裾を足した(襴)形であったことが窺える
2013-11-28 21:16:39なお正倉院蔵のものを見ると、型は微妙に違うものが数種類あり、一定でなかったと見え、型よりも、用途や布の種類によって呼び分けられていたのではと推測される。衫は表に出ないものだから、ということもあると思うが、制服(官服)でなければ型を同一にする必要性は別に無かったのではなかろうか。
2013-11-28 21:23:06RT>わあい(´∇`人*)。奈良時代の良戸、こういう格好で働いてたのでしょうねえ。掛け守りみたいな紐付きの布袋とか掛けていたりもしたかしら。
2013-11-28 21:13:02参考:「山を削りて」
「東大寺造仏所炊屋私記(一) 山を削りて」(澤田瞳子/小説宝石12月号) 読んだ~。大仏鋳造の為に徴発されてきた仕丁の青年真楯。国を乱しながら仏を崇め、山を削ってまで大仏を造ろうという帝への反発心を抱えていたが…。 うーん、こういう、もの食って生きている人達の話が読みたかった!
2013-11-23 23:02:30褊衫について
衫といえば忘れちゃならないのが法衣の「褊衫」。これは袈裟がまだ長大な巻布の形であった頃に内衣とした僧祇支等に領や袖が付けられ衣の体を為したもので、衫は単の短衣の意(下に裙子を着ける)、褊は一辺に偏ることで、本来は右肩だけを覆う様子を差していたと思われる(井筒雅風「法衣史」の説)
2013-11-28 22:00:17褊衫はこのように成り立ちが特殊で、袈裟と同様左回りに巻くように着たから、右衽が基本の中国に於いても左衽になったのだろう。なお、後魏には既に存在していたようだ。『至後魏時始加右袖両辺縫合謂之偏衫』(「仏制比丘六物図」宋代、元照)
2013-11-28 22:19:35褊衫は日本で現行使用される法衣の中でも、もっとも古制を遺しているもの。後魏(北魏)から続く衣を今もまとっていらっしゃるんだと思うと感動的でしょう…フフフ…
2013-11-28 22:30:44褊衫も、むかーしのものと、いま僕らが呼んでいるものとは、だいぶ違ったりするんだろうなあ。普通の衣と、衿が逆に合わさるので、知らない人が見ると、逆ですよ、とか言われてしまう。
2013-11-28 22:31:41高野山の坊さんは、基本的に黒色の空衣(うつお)を常用する。京都あたりの衣と違うのは、裾のプリーツが短く、少ない。ふくらはぎ部分にはプリーツが無いので、取り扱いが楽。僕はこっちのほうが好き。黒い空衣に白い袈裟、は学侶の出で立ちであるので、聖方や行人方はちがったんだろな。
2013-11-28 22:44:15ちなみに白い袈裟を付けるのは、今は当たり前になっているけれど、昔は学侶として認められないと、身に付けることが出来なかったそうです。
2013-11-28 22:45:13再び衫について
そういえば、官戸は制服を着ていたのだろうと思うのですが、南備さんや舎薩のような寺奴婢はどんなものを着ていたのでしょうね。 @sakana6634
2013-11-28 22:48:45