丹生谷貴志ツイートまとめ(2013年12月)

丹生谷貴志氏の2013年12月分のツイートをまとめました。
1
前へ 1 ・・ 4 5 次へ
nibuya @cbfn

唐突に宇波さんを思い出したのは、宇波さんが坂部恵さんの東大での同級生だったと聞いた記憶があるからだけのことです。ほんと、意味のない昔話。

2013-12-24 13:26:08
nibuya @cbfn

その会ではその前のシンポみたいなので僕も何やら喋ったのだが、その後誰だか忘れたが「映画人」が僕発言を取って「さきほどどこぞの大学のセンセイが・・・」と始めた。ムッと来たのでパーティーでわざとその人の前に立ったら「いやいや、つい口癖でねえ」とニヤついた・・・

2013-12-24 13:32:11
nibuya @cbfn

・・・まあ、「どこぞの大学のセンセイ」という言い方が「業界」では「どこぞの馬の骨」と同じ意味で使われるのを知った。まあ驚きもしませんでしたが。例によって「東大御出身?」とかニヤつくから、「いいえ芸大です」と言ったら変な顔をした。「芸大」というのはウナギめいて戸惑うらしい

2013-12-24 13:34:15
nibuya @cbfn

・・・てなあ無意味なことを今時時間に書いているのは、今頭の中身入れ替え作業中と体調不良で、何もする気がしないからでして、白けるもんです。さしあたりは溜まった歴史書関係やらを読み上げて、イギリス系?とドイツ系小説をざっくり読んで・・・とか計画は立てますが、さてね。

2013-12-24 13:53:35
nibuya @cbfn

と言ってる端から『柳生忍法帳』三部作読んでないし『果てのない道中記』もあるしストルガツキーの『神様になるのも大変だ』もあるし安東次男さん突破!もあるしとか、余計な・・・

2013-12-24 13:59:46
nibuya @cbfn

・・・とか言いつつノーノの最後の曲がヘルダーリンのディオティマであることは・・・とか・・・結局、何もしない・・・

2013-12-24 14:02:24
nibuya @cbfn

さて今日はクリスマス・イヴな訳ですが子供の頃は立川基地や福生のアメリカンなクリスマス空気の近くにいたのですが信仰者ではないので無関係。しかし関西に来て周囲の意外な人にキリスト教徒が居るのに驚きます。神戸・阪神バンドの会衆派の流れと関係あるのかしらとか勝手な推論・・・

2013-12-24 14:30:52
nibuya @cbfn

・・・クリスマスというと駅の通路に現れる傷痍軍人さんたちが靴磨きと場所取りする光景や救世軍の楽隊・社会鍋を思い出すのですが、もう所謂「昭和の風景」なんですね。と、別に感慨があるわけではありません。

2013-12-24 14:36:38
nibuya @cbfn

大江健三郎『晩年様式』無論未読。題名にしてしまうあたりが大江さんらしい。『芽むしり仔撃ち』の裏張り?「Do not go gentle into that good night.Rage, rage against the dying of the light」D.Thomas

2013-12-24 15:29:43
nibuya @cbfn

さしあたり大江さんの実作とは関係なく、「晩年様式」或いはむしろ「老年様式」というものの持つ魅惑と危険について、僕の基準(!)はヘッセの『ガラス玉演戯』を論じたブランショの『来るべき書物』所収の文章で。否定性の穏やかさの危険或いは逆に決定的な「激情」の最終形態でも有り得る穏やかさ?

2013-12-24 22:45:43
nibuya @cbfn

そのブランショはまたフーコーの最後の仕事に漂う穏やかさの不穏さを問題とし、そしてデリダはブランショの『私の死の瞬間』に或る晩年様式の頽落の危険を指摘し・・・バルトは唐突な事故死によって、ドゥルーズは卒然とした自殺によってそれを・・・要は「様式」を無効にするゾーンの事件的循環・・・

2013-12-24 22:50:48
nibuya @cbfn

・・・或いは別の二つの「晩年様式」・・・アルトーの『神の裁きとけりをつける為に』そしてバタイユが死病の中、一日に数時間しか持たない薄明の中で書き続けた『ラスコー』・・・

2013-12-24 22:55:10
nibuya @cbfn

訂正。ノーノの最後の曲は『hay que caminar』。まあ、ディオティマ断章と一緒に「最後のノーノ」に纏められることが多いんですが、まあ正確さは必要・・・

2013-12-25 14:56:31
nibuya @cbfn

意味なくどたばた・・・小田島訳と福田訳のシェイクスピア全集破棄決意。前者は予想以上に訳に陰翳がなく、後者は役柄の性格や口調の把握設定がどうも僕の感じと合わない。残念。ま、ウンザリするほど繰り返して来た無駄遣い。

2013-12-28 10:19:37
nibuya @cbfn

繰り返すが僕らがさしあたり現在使っている「日本語文」は明治政権下で良くも悪くも高速でつくり出され精製されたもの、それを日本語の本質的なフレキシビリティの高さとも言い得るが、逆にその不安定性をも意味している。文法学的にはともかくその不安定性は僕らの「精神不安定」の一要因かもしれない

2013-12-28 10:24:45
nibuya @cbfn

谷崎以降の『文章読本』の系譜は一見「名文練習帳」の形態を持つが、要は「現代」日本語の本質的な不安定性に対する「不安の意識」の表明であり、その限りでのみその種の本の意味がある。まあ、冠婚葬祭、当たり障りない「透明な文章」の教則本の類いの話ではない。

2013-12-28 10:28:12
nibuya @cbfn

名作朗読集などはともかく例えば盲人用の朗読集や点字図書集は日本ではどんな現状なか? 瞥見した限りでは「良識的」名作主義やらによってそれが統制されてしまっているような印象がある。全ての書を読む「権利」がそこでも作動しているのか? 密かな、無意識の「焚書」がそこで行われてはいないか?

2013-12-28 10:37:52
nibuya @cbfn

徳川夢声さんの『宮本武蔵』朗読の伝統? 巧い下手の問題ではなく、全ての本はまずは朗読として「聴かれる」べきだと一応主張してみる。その対比としてのみ「白紙に書かれた文字」としての言葉の有り様が把握されるべきだ。マラルメの『骰子の一投げ』は「朗読不能」である・・・

2013-12-28 10:42:30
nibuya @cbfn

再々度繰り返すが、カフカは基本的に彼の作品を妹や友人や恋人に大声で、身振りたっぷりに、朗読して聴かせている。「僕は朗読の名人だ」とカフカは不思議な屈折を示しつつ、日記に書いている・・・

2013-12-28 10:45:23
nibuya @cbfn

『聖書』は呟かれるようにして読まれた。だから修道院は沈黙ではなく粟粒か風に鳴る草原か森林のようなざわめきに満たされていた。『コーラン』は高く朗唱されイスラム教徒の大部分は朗唱されるものとしてその聖典を「聴き取る」。『ウパニシャッド』は本来師の口から弟子の耳に密接して呟かれ・・・

2013-12-28 10:59:00
nibuya @cbfn

「朗読」は奇妙な結果を示す。例えば石原慎太郎の文章は大方朗読に耐えない(聴くだけでは接続が取れない)。一般の印象と異なり彼の文章意識は完全に黙読的「文学青年」のそれに属する。「斜め読み・速読」の青臭い教養主義の文章意識の産物。一方例えば幸田露伴の文は堂々とした朗読=口語文なのだ

2013-12-28 11:20:24
nibuya @cbfn

図書館は静か過ぎる。あまつさえ沈黙を強制される。朗読されるべき書物の圧殺・・・

2013-12-28 11:25:42
nibuya @cbfn

或る時期以降のデリダの本はあらかた講義や講演で「読み上げられた」ものの採録だったと理解してみる(デリダの「ダジャレ」には時に即興のおっさんダジャレとしか思えないものがあるのはそのせいか)。ヘーゲルの書物も多くは大学の講義で「読み上げられた」のだった・・・。

2013-12-29 10:44:20
nibuya @cbfn

とか、分かった風な、意味有りげなことを書いてますが、要は人一倍せっかちで、じっくり読まないどころか行文を先取りして飽きてしまうという悪癖があるので、「朗読するように読め」と自戒しているに過ぎないわけです。

2013-12-29 10:46:24
nibuya @cbfn

対立だろうと親密だろうと、例えば大岡、埴谷、武田とか、吉本、花田とか三島、安部とかなんでもいいが、そうした交錯の光景というものが今は不思議なくらいないのは何故かと、どうでもいいことだが。大江、村上、古井、高橋、島田、筒井、石原、山田、いとう、円城、三浦、中原etcと並べて・・・

2013-12-30 03:34:56
前へ 1 ・・ 4 5 次へ