人間の条件:ヒトは人間に生まれない。
個人の行為がその行為が行われる以前にどのような効果を社会に及ぼすと言えるか、予測することができるだろうか?社会がゲシュタルト的構築物である以上、そして個人の行為がカオスであり、差別と基本的人権の侵害以外にそれはありえないと、私は思う。
2010-12-22 07:47:29人間がカオスであるというのは大多数の人間においてはその行動が純粋に主意主義的でないからであり主因は感情である。感情が個人に対して不確実性を付与する。ハイエクによれば、デカルト的設計主義的合理主義の結果よりも不確実性でカオスな人間同士が構築する自生的秩序の方がはるかに効率的である。
2010-12-22 07:55:54ですです。RT @yutakioka: ...感情が個人に対して不確実性を付与する。ハイエクによれば、デカルト的設計主義的合理主義の結果よりも不確実性でカオスな人間同士が構築する自生的秩序の方がはるかに効率的である。
2010-12-22 07:57:46同意、構成要素が人である以上はそうなる RT @ynabe39 ですです。RT @yutakioka: ...感情が個人に対して不確実性を付与する。ハイエクによれば、デカルト的設計主義的合理主義の結果よりも不確実性でカオスな人間同士が構築する自生的秩序の方がはるかに効率的である。
2010-12-22 08:00:18それで、究極的に主意主義的人間がいるとすれば=「への自由を持つものであり」、それは彼の世界の解釈に対して何の重み付けすることもしない人間つまり、ニーチェが理想とする超人=ニヒリストである必要があるわけであるが、大多数の人間は、動物と超人の間の綱渡りから滑り落ちてしまう。
2010-12-22 08:05:51@pachitaro 業務上過失致死の場合は私が上げた例外の二つのうちの一つ基本的人権の侵害と考えることができるので、予測は可能です。RT業務上過失致死なんかの裁判だと予見できたかどうかがいつも争点になってる。予
2010-12-22 08:24:14@bornekiller そうですね~、それをニーチェならば「力への意思」と言うでしょうね。RTたぶん衝動なんでしょう。それを秩序立てて捉えたいという衝動まであるからややこしい。
2010-12-22 08:45:32@yutakioka では人間と動物は何か違いがあるのかというと結論から言えば「ないだろう」て思うわけです。んで、単なる感情は道具であり文化的に統合されていく方向へと緻密に計算され個人に浸透していく相互担保的な行為なんだろなと。衝動は個別の行為を規定し分別するための最初の原因とか
2010-12-22 08:50:16@bornekiller 同意です、生まれながらの人間と動物の差があるとは思えません。唯一差があるとしたら、社会化の結果として、動物よりも本能に逆らう能力を身につけることができる点でしょうね。RTでは人間と動物は何か違いがあるのかというと結論から言えば「ないだろう」て思うわけです
2010-12-22 08:54:06@yutakioka それで一番端的に本能に背く行為として「自殺」てのは本当にあり得るのかてこと、ずっと考えてます。わたしには理解出来ない。しかし現実にはそのような行為があり得るらしい。そこがどうしてもわからないです。不思議なもんです。
2010-12-22 08:56:27@bornekiller そうですね~。私もこれは理解できません。E・フロムによれば、自殺というのは個人が「~からの自由」の代償として背負わざるを得なくなった孤独と無力感を解決する方法の一つとして「~への自由」へと移行できなかった場合に
2010-12-22 09:02:36@bornekiller 「への自由を獲得できるのであれば、個人性と社会的価値の要請との対立は、個人の自我=個性を放棄することなしに、個人の価値を体現できると思われるんですが、それができないとその解消法として自殺という個性を社会から抹殺するという方を選ぶと考えられるそうです。
2010-12-22 09:06:21@bornekiller 確かに、特に犬や猫などは、訓練=人間的には教育をすれば、ある程度本能を抑制することができるようになりますね~人間と動物は別のものとは思えません、違うとしてもそれは質の違いでしょうね。RT動物も高等になって来ると普通に本能を抑制しています。尿意や便意など。
2010-12-22 09:11:47@bornekiller 質の違は、同じように本能を抑制できるようになると考えた場合に動物も抑制できるんですが人間で言うところの例えば正義概念という抽象的レベルまでそれができるか?と言われればそこには違いがあるのかな?と思いますね。ただ私も正義は理性から演繹できないと思いますが。
2010-12-22 09:15:49@yutakioka 人間が訓練しなくても群れを形成して集団生活する動物も単独で狩りをする動物も本能は適度に抑制しているようです。確かに質の違いのようなのを感じるわけですがそれは量から質へ転化しただけのことなのではないかと思う次第です。
2010-12-22 09:16:44@bornekiller そうですね~、私もそう思いますね~、ただこの量から質への変化を大きいとみるか、小さいとみるかは価値観によるのでしょうね。RT確かに質の違いのようなのを感じるわけですがそれは量から質へ転化しただけのことなのではないかと思う次第です。
2010-12-22 09:20:33@yutakioka 量的な変化は計算できるが質的な変化は命名するしかないですからね。ここらへんずるいとも思いますが。(命名が)
2010-12-22 09:25:35@bornekiller ですね~、そこが認識の違いとなるんでしょうね。RT 量的な変化は計算できるが質的な変化は命名するしかないですからね。ここらへんずるいとも思いますが
2010-12-22 09:37:38フロイトの精神分析理論が革命的だった一つの重要な理由は、人間と動物を”分ける”とされた啓蒙時代哲学の申し子=理性ですらも支配できない領域=無意識が人間にも存在していることを示唆したことであった。スピノザ・カント・デカルトにおいても理性は別の仕方で特別な地位を占めていた。
2010-12-22 16:59:07ニーチェにおいてはフロイトでいうエロスとタナトスつまり「力への意思」の克服を自己超克する自由人=ニヒリストが動物と人間を分別する可能性として提出されているわけだが、実際には超人へと至る人間が少ないことが動物と人間の違いを不明瞭にしているということが言えるだろう。
2010-12-22 17:03:59同じころ心理学者たちは錯視の研究によって理性の根拠となる知覚も世界の正確な反映ではないと示し始めたわけです。 RT @yutakioka
2010-12-22 17:05:02