二刀流が広まらなかったのは何故か?
馬庭念流:馬庭の地方流派ですが、代々の当主の中でも何度か江戸に道場を出している影響か、柳川藩や中部地方などにも広まっています。また、馬庭近辺の村落や小藩でかなり学ばれており、江戸時代を通して北関東の有力流派でした。また念流自体は色々な系統が全国にあったようです。
2015-10-27 23:49:22北辰一刀流:中西・浅利道場で小野派一刀流を学んだ千葉周作の流派で、免許を三段階に減らした、わかりやすく教えた、などの理由で人気があったようです。周作も鳥取藩や水戸藩に関係してそれらの藩士も学びました。大変有名ですが全国規模では小野派や直心影流、神道無念流に比べると広まっていません
2015-10-27 23:51:33とまぁ、トダ流、鹿島新当流など古い有名流派以外は全国に広まる契機は江戸の道場になっています。逆に言うとどれだけ優れていても地方流派だとなかなか有名になりません。大石神影流や加藤田神陰流はある程度知られていますが、江戸や東京での試合で門人や開祖等が活躍したため有名になっています。
2015-10-27 23:54:37二天一流:宮本武蔵が肥後で教えた。肥後時代以前の弟子が愛知や中国地方で伝承されました。伝承者の移動で肥後から福岡、福岡から新潟に伝わっています。宮本武蔵は江戸時代初期から有名だったようですが、江戸で伝承されていなかったからか、地方流儀に終わっています。ただ、(続く)
2015-10-27 23:58:37ただ、上記であげた地方の多くで二天一流や武蔵流は維新後まで残っていますから、優秀な流派ではあったのでしょう。剣道範士三橋鑑一郎は岡崎藩の武蔵流の免許皆伝でした。また熊本の明治の有名剣道家には野田派二天一流の道場出身の人間が何人かいます。
2015-10-28 00:00:56示現流:タイ捨流を学んだ東郷重位が京に来て天真正自顕流(神道流の流れ)を学び創始。薩摩で広まり数多くの弟子がいた。初期の弟子が各地に散らばり西日本を中心にジゲン流を名乗る流派が存在。また宮崎から関東の笠間に牧野家が国替になった伝わり、笠間を中心に関東でも広く学ばれています。
2015-10-28 00:01:25地方の史料を見ると、有名流派に交じって聞いた事も無い流派がいろいろ出てきます。その地方の人が創始した流派の事もあれば、新陰流や新当流を戦国時代に学んだ人がその地方に伝えたものが江戸時代の間ずっと伝わっている事などもあります。
2015-10-28 00:03:40.@inuchochin 「剣術は強ければ広まる」訳ではないというのは、二刀流以外に、大石進も例に挙げられま砂。ただ、こちらの場合、江戸での連覇以来、竹刀が長くする奴が増えた、なんて話もあるので、模倣する難度が低ければ流行やすくなるというのはあるかもで砂。
2015-10-28 00:02:28@k_hisane 大石進は江戸に短期しかいなかったので道具だけ真似られたんでしょうね。大石家には各地から多数の門人が学びに来ていたらしく、九州中国土佐などに広まっていたようです。
2015-10-28 00:09:09.@inuchochin そう考えると「強ければ広まる訳ではない」というより「強ければ勝手に広まる(or強くさえあれば広まる)訳ではない」というのがより妥当かもですね。強さを証明して、その評判が広まれば、やはり人気は出るでしょうし(尤も、情報伝達手段が整ってるのが前提の話ですが
2015-10-28 00:15:15@k_hisane 評価が広まる、習う人が多数いる、という条件がないと広まりようが無いですから、やはり地方の道場と江戸ではずいぶん違いますよね
2015-10-28 00:46:31@inuchochin 全国に広まらなかったとしても、江戸だけで十分すぎるほど人口(特に武士階級)いますしね。顧客候補の数が多いというそれだけでも魅力で砂。
2015-10-28 01:18:58.@inuchochin 戦国時代に卜伝や伊勢守が上洛して教授したのも、当時、情報発信機能を最も備えていた土地が京だったからですし喃。流派を広めようという意志とその手段(路銀とか時間とかも含む)があるなら、やはり都市を目差すのが手っ取り早いで砂。
2015-10-28 00:52:35