二刀流が広まらなかったのは何故か?
実際、この辺の話は、当時は武芸が社会の中で身近に存在しており、そのスタンスも時代劇にあるようなイメージとは違う事を理解してもらう必要がありま砂。複数の流派を併修するとか、ちょっとやって辞めるとか、仕事の付き合い上とか、そもそも武芸と関係ない目的で入門するとか、普通にあった訳ですし
2015-10-27 02:47:50無論、熱心に稽古する人物もいて、そういう人はいいのですが、「まあ、武士だから」という世間体で稽古してた人間も結構いた訳で、そういう人間からすれば、技法的な優劣よりも、習うとこが近所かどうか、謝礼はあまり高くないか、稽古が厳しくないかなどの方が、流派選択の基準になり得たでしょうし。
2015-10-27 02:58:43もっと身も蓋もないことを言うと、そういう人にとって、免許を取るとか、目録を取るとかは、目的になってないので砂。とりあえず何かやっておけば世間体は立つ、と。逆に言えば、そういう人からすれば、近くにあって、謝礼が安かったなら、一刀でも二刀でも然程斟酌せず入門した可能性はあるだろうなと
2015-10-27 03:03:42だからこそ、そういう人間でも入門するような時代になる前に、二刀流が全国に広まりきらなかったことが、二刀流が非主流に留まった要因であり、更にその根っ子を言えば、二刀流が一刀主体の流派の確立後に成立した…つまり、一刀主体の流派が先に全国に広まり、定着した事が最大の要因であろうなと。
2015-10-27 03:14:01ただ、二刀流は、そもそも「刀を二本持っている」ことが絶対条件であり、それ以前は一振の太刀を下げていた時代が長かった訳で、流派以前に「太刀といえば一振で振るうものだ」という認識が定着してたであろうことを考えると、戦国期に入ってやっと出始めた二刀流で、その認識を覆すのは無理難題で砂。
2015-10-27 03:28:23既出の話の繰り返しになりましたが、やっぱ技法どうこう以前に、「剣術といえば基本は一刀だろう」という認識を覆す前に、時代が変わり、二刀が普通の技法として認知される機会を失った、という話になるよなあと。まあ、時間があれば覆せると断言はできませんが、少しは可能性があったかもで砂。
2015-10-27 03:39:08というか、二刀をやったら一刀はやらない、あるいはその逆もまた然り、という2進法になってるのが難儀で砂。「両方やる」ことも普通に有り得る訳で、実際、当方の知ってる人でも、二刀の流派と一刀の流派の両方を修めてる人がおられますし喃。なんでそんなに対立させたがるのかがわかりません喃。
2015-10-27 04:00:16更に補足「流派の伝播の歴史~剣術は強ければ広まるのか?」
どうも剣術は強ければ広まる、と思っている人も多そうなので、剣術よもやま話を参考に、有名流派の伝播の歴史をごくごく簡単にまとめてみます。togetter.com/li/419867
2015-10-27 23:23:56まず、東北から九州まで全国各地に伝承があったと言える剣術流派の名前を並べてみると、新陰流(柳生流)、小野派一刀流、直心影流、神道無念流、心形刀流、トダ流、鹿島新當流、無外流とかでしょうか。 次点で支流も含めると九州中国四国関東に伝承があった示現流
2015-10-27 23:32:59柳生新陰流:柳生宗矩が将軍家師範になった影響で多くの大名や家臣が学び全国に広まりました。現在伝わる尾張柳生は江戸時代を通して尾張周辺でのみ伝承されてます。
2015-10-27 23:35:35小野派一刀流:小野忠明の弟子孫弟子が水戸、青森、広島等に伝えた他、小野家の弟子の中西家が江戸で町道場を開き竹刀防具稽古を重視し評判になったためか、各地の武士や江戸に留学に来る裕福な農民が入門、全国に広まりました。本家小野家はごく一部の門人のみでほそぼそと大正頃まで続いていました。
2015-10-27 23:37:19直心影流:開祖山田一風斎の息子、沼田藩士長沼国郷が江戸で道場を開き、他流と比べて早くから防具試合を重視したため流行、各国の弟子が増え全国に広まる。また弟子筋の藤川、赤石、男谷の道場も繁盛し、江戸末には講武所の男谷が名人として有名です。男谷の元には諸藩から留学多数でした
2015-10-27 23:38:25神道無念流:二代目戸賀崎熊太郎が江戸で道場を開き試合稽古を重視したためか門弟多数。熊太郎が郷里に帰る際に高弟岡田十松に道場を譲り、その道場も大繁盛。岡田道場から斎藤弥九郎が独立、幕末の有名道場となってます。弥九郎の息子たちは回国修行で諸藩で活躍、その影響でさらに諸藩の門弟が増える
2015-10-27 23:39:24鏡新明智流:開祖大禾伴山と子息春蔵が江戸に道場を開き、神社に奉納額をあげる。その奉納額が直心影流長沼道場の勢力圏だったため直心影流の門人の挑戦を受けて見事に負ける。負けたのに門人は増えていったそうです。教え方が良かったのか何なのか。ここも試合重視で幕末には各地から留学多数
2015-10-27 23:42:00心形刀流:初代の伊庭さんからずっと江戸に道場がありました。ここも試合剣術、他流試合を早くから取り入れているようです。幕末にはやはり留学多数。
2015-10-27 23:42:33柳剛流:心形刀流を学んだ開祖がスネ切を取り入れて創始。免許制度が三段階でシンプル、二十代で免許が取れる、試合重視、という事で関東各地の農村に道場がどんどんできていきました。二代目が宮城の人だったので宮城でも伝承、ほかに三重や兵庫県竜野にも江戸経由で伝わっています。
2015-10-27 23:42:56天然理心流:西関東の農村地帯で盛んだった流派です。江戸にも道場があり一応講武所師範になった人もいますが、有名になったのは新撰組の影響でしょうね。一応昭和頃まで関東農村にいくつかの系統が残っていたようです。
2015-10-27 23:44:07富田流:有名な富田勢源が回国した先で教えた影響か、全国各地に富田流、戸田流という流派が存在していました。本流の富田家や山崎家は加賀藩に仕えたため、加賀藩、富山などで中條流は昭和頃まで残っていたようです。そのほか山崎家が近畿に移った影響で昭和まで近畿にも中條流があったようです。
2015-10-27 23:44:42鹿島新當流:有名な塚原卜伝が戦国時代に回国修行をおこなった影響か、神道流、新當流は戦国時代には既に九州あたりまで広まっていました。江戸時代以降は卜伝流、一羽流など様々な名称の分派もあり、卜伝の影響を受けた流派は各地に伝承されていました。
2015-10-27 23:46:22タイ捨流:開祖丸目蔵人やその弟子が新影流として、後にタイ捨流として薩摩熊本天草などで広めたため、戦国末期は九州のかなりの範囲で学ばれていたようです。江戸時代以降は勢力が小さくなりましたが、丸目がいた人吉藩、丸目が訪れて指導した肥前では明治まで盛んでした。分派は全国各地にあります
2015-10-27 23:48:21