井上達夫『他者への自由』読書メモ集

井上達夫『他者への自由――公共性の哲学としてのリベラリズム』(創文社、1999)の読書メモをまとめました。
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荒木優太 @arishima_takeo

「あなたは問題を喪失した」――これはたしか、ヴィトゲンシュタインがかつての師ラッセルに向けた哲学的死亡宣告である。政治はしばしばスキャンダルで「政治生命」を失うが、哲学者の「哲学生命」を奪うスキャンダルがあるとすれば、それは問題喪失だろう。by井上達夫『他者への自由』

2015-12-04 21:08:15
荒木優太 @arishima_takeo

利益の基本的関心は「自分が正しく他は間違っていること」の承認の獲得にではなく、「手当されること」にある。いささか逆説的ではあるが、妥当要求は間主観的妥当を標榜するがゆえに排他性をもつのに対し、充足要求は自己志向的であるがゆえに非排他的である。by井上達夫『他者への自由』

2015-12-05 07:37:18
荒木優太 @arishima_takeo

我々は宗教的寛容を語る論理の延長で哲学的寛容を語ることはできない。政治哲学の脱宗教化は可能だとしても、その脱哲学化は語義矛盾か、さもなくば自己を囲む地平線から離脱する試みに近いからである。by井上達夫『他者への自由』

2015-12-05 08:27:44
荒木優太 @arishima_takeo

国家は言葉の力に依存するがゆえに、言葉が傲慢化するとき、専制の最悪の形態が現出する。by井上達夫『他者への自由』

2015-12-05 11:17:38
荒木優太 @arishima_takeo

相対主義は啓蒙的理性のもう一つの傲慢な顔である主意主義、即ち、人間の意志をすべての価値の創造者とする発想の帰結であり、独断的絶対主義が全知の標榜を人間に許すように、価値を創造する自己の意志の全能性の標榜を人間に許すのである。by井上達夫『他者への自由』

2015-12-05 11:31:55
荒木優太 @arishima_takeo

「最も抑圧的な国家とは、最も暴力的な国家のことではなく、逆に、暴力の実行が殆ど無用化されるほどに、威嚇が浸透し成功している国家、外見上はきわめて穏やかで平和な国家である」(井上達夫『他者への自由』)。一九八四的な、規律訓練的な。

2015-12-05 13:51:58
荒木優太 @arishima_takeo

自らの内に少数者性を全くもたない個人、その存在の全側面において平均的な個人というのは、統計学的虚構であって、現実の人間ではない。すなわち、すべての個人が何らかの点で少数者なのであり、少数者の権利保護とは万人の権利保障に他ならない。by井上達夫『他者への自由』

2015-12-05 13:55:43
荒木優太 @arishima_takeo

自由な社会の核心は、単なる「異なり」の相互承認ではない。むしろそれは、「異なりの異なり」、即ち、人々を異ならしめる対立次元そのものの多様性を自覚し、これを我々の生の恒常的条件として受け容れられるだけの度量の陶冶にある。by井上達夫『他者への自由』

2015-12-05 13:59:10
荒木優太 @arishima_takeo

今日のような情報化時代になると、共同体アナーキズム(マイケル・テイラー、クロポトキンも?)は、共同体離脱の誘因、つまり情報を介した共同体間の「リクルート獲得競争」とともに成員の離脱の機会が高まり、安定的な共同体関係が維持できなくなる、と井上達夫が書いている。なるほど。

2015-12-06 09:26:48
荒木優太 @arishima_takeo

強力な嘴をもつ鳥は相互に攻撃を抑制できるが、取るに足らぬ嘴をもつ鳩は、攻撃抑制の必要が通常はないため、喧嘩相手が死んでもなおつつき続ける。動物行動学のこの知見が示すように、攻撃抑制能力は攻撃能力にむしろ比例すると推定すべき理由がある。by井上達夫『他者への自由』

2015-12-06 09:35:01
荒木優太 @arishima_takeo

「法律家的ジャーゴンを使って言えば、醒めたアナキズムの代替的秩序構想は却下されるべきではなく、棄却されるべきである。無視されるべきではなく、論駁さるべきである」(井上達夫『他者への自由』)。法律家にとって「却下」と「棄却」って違う言葉なんだ、へぇー。

2015-12-06 10:03:02
荒木優太 @arishima_takeo

リベラリズムは中立性の哲学ではなく、コンセンサスの哲学でもない。それは公共性の哲学である。by井上達夫『他者への自由』

2015-12-07 10:47:57
荒木優太 @arishima_takeo

井上達夫さんってサンデルとロールズからコメントもらってんのか。すげーな。 pic.twitter.com/5pUuyQ2kZ0

2015-12-07 16:00:48
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荒木優太 @arishima_takeo

井上さんのいう「共生」ってコンヴィヴィアリティのことだったのか。イリイチとか好きなんだろうか? pic.twitter.com/vHUy95oWRM

2015-12-07 18:00:17
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荒木優太 @arishima_takeo

ここでいう、会話とタルドのいう会話を比較するべきではないか。メモ。 pic.twitter.com/KXB7v9KBUD

2015-12-07 18:01:11
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荒木優太 @arishima_takeo

我々の善き生の諸構想の多様性に拘わらず、我々は我々自身の限界についての自己理解を共有できる。なぜなら、我々は共通の人間的限界に服し、共通の悲惨にさらされ、共有の人間悲劇に巻き込まれているからである。by井上達夫『他者への自由』

2015-12-07 18:08:46
荒木優太 @arishima_takeo

「社交体において培われる共同性は、人間存在の「有限性(finitude)」の共通理解である。我々の有限性の共通理解は、「共在感(a sense of togetherness)」とでも呼ぶべきものを育む(井上達夫『他者への自由』)。トゥギャザーしようぜ!

2015-12-07 18:10:49
荒木優太 @arishima_takeo

愛するから「あばたもえくぼ」になるのではなく、「あばたもえくぼ」にする相手の神秘化が、恋愛の条件としての他者性の保存を可能にするのである。相手を完全に征服してしまったとき、相手を自分の所有物にしてしまったとき、「えくぼ」は「あばた」に戻り、恋愛は死ぬ。by井上達夫『他者への自由』

2015-12-08 11:22:24
荒木優太 @arishima_takeo

まさに「あばたー」だな(『アバター』観ていない)。

2015-12-08 11:22:46
荒木優太 @arishima_takeo

井上達夫『他者への自由』読了。あくまで「正義の基底性」(いわゆる正は善に先立つテーゼ)にこだわることで、つまりは政治的リベラリズムでひよる前のロールズ的正義にこだわることで、コミュニタリアンにも負けない「逞しきリベラリズム」を構想する。結構面白かった。

2015-12-08 12:24:43
荒木優太 @arishima_takeo

特に(サンデルの批判なんてそんな真面目にきく必要あるか?とか思うが)共同体論へのアンサーから出てきた「自己解釈的存在」は素晴らしい。たしかに主体はある限定された共同体に帰属している(「負荷なき自我」ではなく「位置づけられた自我」、シチュエイティッドされてる)。

2015-12-08 12:29:24
荒木優太 @arishima_takeo

だが、その共同体の伝統解釈は個々人によって異なる。とりわけ情報化時代では解釈コードは多様化せざるをえない。自我が負荷あることは勿論、各々自身の依って立つ処を考えるべきなのだが、その解釈の多様性は「正義の基底性」によって守られねばならない。この辺、文学理論との接合しそうなポイント。

2015-12-08 12:33:32
荒木優太 @arishima_takeo

他方、最後の最後で出てくるリベラリズムを鍛え上げる契機としてのレヴィナス他者論の援用にはやや疑問が。『全体性と無限』しか参照してないから「彼性」の概念が出てこないのは仕方ないとしても、対面の契機を「他者を自己の「縁」の世界に内部化」と解するのは、最早レヴィナスを語る必要がない感。

2015-12-08 12:38:56
荒木優太 @arishima_takeo

レヴィナスの顔が無限を供給するのは、顔の向こう側に第三者がいて彼が無限者(第三者の第三者の……)となるからなんじゃないだろうか。普遍的(匿名的)正義の確立のため、対面批判せざるをえないにしても、依然として他者を無限の差異の供給者として活用する(できる)というのは一寸無理筋では。

2015-12-08 12:43:03