戦略は「知恵次第でどうとでもできる」ものではない

後世から見て「ああすればよかった」と言われることでも、そこに至るまでの状況を見ると他にやりようもなかったということは割とあったりして、当人の知恵と努力では覆せない要素が山のようにある、という話。
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ooi@n_m @JDSDE214

@sionsuzukaze @kizineko07 批判して車輪の再発見(車輪ですらないわけだが)をやろうと試みてるけど、ああも後知恵感に溢れた批判はそうない。

2016-01-01 11:32:47
涼風紫音/圧縮 @sionsuzukaze

@JDSDE214 @kizineko07 大なり小なり戦略が無かったとは思えないのですけどね。勿論その領家の規模に「応じた」なりの戦略にはなるでしょうが。ともあれ割と不毛な話にはなりそう。

2016-01-01 11:37:26
涼風紫音/圧縮 @sionsuzukaze

実施のところ、「戦略」といった次元を「どの程度」で見るかによって視点は変わるのだろうけど、信長も相当アレなことはやっていたりするので(浅井家の家中動向を把握し損ねただけでなく、京畿ではしばしば離反されているし、何より四方敵)。ま、北条家も四方敵だった訳だし当時はそんなもの。

2016-01-01 11:00:12
涼風紫音/圧縮 @sionsuzukaze

では信長が他と抜きん出て戦略眼を持っていたのかといえば、それはそれでちょっとなぁ。見る時期によっては大友宗麟だってそれなりだったし島津家もそれない。四方敵ながらうまく各個撃破をしたという点では伊達政宗もしれなりだし。三好家は家中統制に大きく失敗したから保留。

2016-01-01 11:02:45
涼風紫音/圧縮 @sionsuzukaze

というか、そもそも戦略以前に立地の優位性というのは絶対的にあって、濃尾はやはり豊かな土地ではあったし(人口、石高)、甲斐なんかは本領とするには信玄に至るまで三代に渡って内乱と外部からの侵攻が相次いだ擾乱の地だったので、適地というにはなぁ。尾張の方がまだ安定はしていた(半国にしろ)

2016-01-01 11:05:48
涼風紫音/圧縮 @sionsuzukaze

謙信にしたって北信からごろごろ国人が逃げ込んでくれば「大義名分」はあるわけで、同じような大義名分で武蔵まで度々攻め込んだものの、得るものもそれほど大きい訳ではなかった結果として越中、能登、加賀方面に後年は専念している感はある。

2016-01-01 11:07:53
涼風紫音/圧縮 @sionsuzukaze

では「そこに戦略があったのか」というとまた「?」ではあるものの、当時の行動原理として拡張政策と並んで大義名分が大きな意味を持っていたのは明らかで、朝廷からの停戦を求める要請がそれなりに機能したり、京を追われた義昭がそれなりに権威を持ってもいた。

2016-01-01 11:09:31
涼風紫音/圧縮 @sionsuzukaze

ただ、これらの事例を持って「戦略」があったの無かったの、というのはちと違う気がする。いずれにしろ「戦国大名」の行動原理が領土拡張(とそれによる家臣・黒人の糾合)にあった訳なので、似たり寄ったりの結果論であることは否めない気はする。

2016-01-01 11:11:28
涼風紫音/圧縮 @sionsuzukaze

ではその似たり寄ったりな部分で「日本」という国に住む民の特定として「戦略」が無いか、と言えばそんなことは無いわけで、旧軍にも戦略はあることはあったし(それが近視眼的であったり場当たり的環境で左右されたにしろ)、同じことはナチスドイツでも見られる。

2016-01-01 11:13:07
涼風紫音/圧縮 @sionsuzukaze

もっと言うと試行錯誤的意味ではイギリスやアメリカも近い部分はあり、アメリカ・ソ連なんかは国力に救われた部分は多分にある(その意味ではイギリスはそれらを引き込めた時点で戦略云々は言えるかもしれないが、どの国も限定的行使と外部環境・内部環境に戦略が左右されたのは大小の問題だと思う)

2016-01-01 11:14:36
涼風紫音/圧縮 @sionsuzukaze

いずれにしろ、戦国時代という「時代」においても、「権威」と「大義名分」というのは「実力主義」と同程度くらいには重みがあったはずで、それは南北朝動乱から連綿と続くものではあるけれども、それを比較的軽んじてやったのは太田道灌だったり三好一党だったりはする、はずだけどね。

2016-01-01 11:19:26
涼風紫音/圧縮 @sionsuzukaze

一つの事例だけ出して国民性云々というのも違う気はする。そんな単純なものでは無かろう。

2016-01-01 11:20:53

参考