前田は講道館修行以前は相撲以外経験が無いように描かれていますが 事実はそうではなく 青森の古流 本覚克己流の道場で既に柔術経験があったことが地元青森の研究者 三戸建治氏の手によって描かれています 早稲田に行く前から柔道 柔術の基礎は出来ていたわけです
2016-03-09 21:36:12明治の頃の古流柔術というのは今の古流柔術の様に型稽古しかやっているのではなく 既に乱取り稽古が主流です 前田はそこで柔術柔道の基礎を作り上げたのでしょう
2016-03-09 21:40:05私が思うに古流柔術の道場が戦後衰退しどんどん失伝していったのは 明治になって組織化して国家がバックアップした武徳会と学校関係にコネがある講道館が勢力を伸ばし 古流の道場はそういった組織に入らねば生きていけない有様
2016-03-09 21:46:35それでも戦前までは講道館 武徳会の中で古流の柔術家たちは生き残りましたが 戦後になると講道館だけがGHQ支配下の中 生き残ることが出来 講道館が柔道を作り上げたというおとぎ話が広まり 戦前に柔術家たちが柔道という名前で武徳会で活躍していた事とか全て記録から無視され
2016-03-09 21:50:24乱取りやってた柔術の先生たちはそのまんま講道館に組織に入るか海外で柔道 柔術の活動やるしかなかったんでしょう で 乱取りやらず型げいこしかやっていなかった道場だけが古武道として今も細々と生き延びている それが柔術の知られざる歴史 史実なんでしょうね
2016-03-09 21:53:32結局は試合での成績が流派の求めるところとなれば、ルールが整備された後でそれに応じて技を磨くことに専念するようになり、流派の独自性を失っていくのは必然…全国的にルールが整備、普及する中で、流派の多くはアイデンティティを失っていったのかもしれぬ。
2016-03-10 12:20:07今も残っている流派は、内部に蓄積された型なり口伝なりに評価軸を移してなんとか現存した…という感じかな。いずれ今も残っている起倒流とか天神真楊流とか、型だけではなく普通に試合してたよね。
2016-03-10 12:22:02試合に重きをおけば柔道とか剣道になるわけだから、わざわざ流派の看板を掲げ続ける理由もない。実際にそういうことが反映してか、古流の道場なのにそのまま柔道剣道の道場になったり、型とか教えなくなったところもあるそうだ。
2016-03-10 12:23:37@inuchochin 読み返せばだいたい、みんみんぜみさんからの受け売りでしたけどねw 嘉納治五郎がいなければ、全国の柔術流儀の間に統一試合ルールが果たしてできたものか…とは思いますが、そもそも明治の柔術試合ルールって細かいこと知らないですw
2016-03-10 13:06:24と、さっきの型の流派の話だけども、話をまとめると型だけの古臭い流派だから生き残れたというのではなくて、『型を重視する流派に変化した』から今も生き延びたのではないか…とか思ったりする。
2016-03-10 13:08:38生き残るのは強いとか弱いじゃなくて変化できるの、とかなんとかそういう感じのこと言った人が昔いたそうだけど、現存する古武術流派の結構なところが、あえて古臭く見える様式を取り入れて変化することによって流派のアイデンティティを維持することになった…とかだいたいそんな感じ。
2016-03-10 13:10:48つまりアレだ、今の「古武術」とされる流派は、もしかしたら昭和30年代とかそれ以降に成立した、比較的に新しい武術のスタイルなのではないか…とかなんとか…そこまでいくと言いすぎか。
2016-03-10 13:11:56ウチの流派が明治以降生き残ったのは、第一に地域の祭礼と結びついたこと。第二に柔道の試合で役に立たないことだと思っている。もしウチの技術が活かせる競技がスタンダードになっていたら飲み込まれていたのかも。昭和初期に何人かの伝承者が柔道の有段者になって、その後結局離れている。
2016-03-10 13:15:14@Chi_Soku 意外なことに剣道ではわりと役に立ったようで、剣術に重きを置いていた伝系は初期の県剣連の役員などを輩出して、流儀としてはよくあるパターンで飲み込まれてしまった。
2016-03-10 13:18:16@Chi_Soku なので、ウチに関していえば、柔道と差別化するために積極的に型稽古重視スタイルに変化したというより、柔道と相性が悪くて競技化の波に乗り切れなかった結果生き残れたのかな、と。悪く言えばガラパゴス化だけど。
2016-03-10 13:25:46菊地秀行先生の『ザ・古武道』で、和歌山の関口家に関口流新心流の取材に行ったが、柔道を主に教えて関口流も希望者にというスタイルだった。もし喧嘩になったら、でるのはどちらの技ですか?というような質問があって「柔道でしょう」と答えられて「やっぱりなあ」と。そんな話があったと思う。
2016-03-10 13:56:52関連
剣道、柔道ルールについてもまとめています。 剣道 柔道 総合格闘技 などの格闘ルール - NAVER まとめ matome.naver.jp/odai/214491426…
2016-03-11 19:13:29自剛天真流剛術1844(天保14)年「糸をまとえるように敵を絡み伏せ、起きて立てないように堅め得れば、よく組み伏せたと見なされて乱取りの勝敗が決まる…敵を倒すことで勝ちとするわけではない。敵に倒されたとしても必ず負けというわけでもない。よく組み伏せて動けなくすることで勝ちとする」
2016-03-24 23:16:50金谷仙十郎と横山作次郎との試合 この頃は相手を抱き上げても離させず、投げるとか、つき落すとかするのを審判が見ていて、背中から落ちたら一本取っていた時代である。 岡山県柔道史 金光彌一兵衛
2016-03-24 23:17:131 戦前は乱取りにおける投げ技・寝技比率が審判の自由裁量に委ねられていた。
2 戦前の寝技は正対が主体(もちろん亀もありましたが)。
3 戦前は場外に出ても試合を続行。
4 戦前は1925年まで引き込みが認められていた。武徳会は1933年、高専大会は1940年まで使われていた。
5 戦前は1925年まで寝た状態から試合をはじめてもよかった。つまり、はじめの掛け声と同時に寝っ転がって猪木アリ状態からはじめてもよかった。
6 戦前の審判は競技者の体格・特性を考慮して試合を主体的に演出した(戦前は体重別ではなく、投げ技・寝技比率も努力目標しかなく、ルールも十三条しかなかったから当然そうなります)。
7 戦前は試合者双方が好んで寝勝負をする場合、審判はこれを放置しても構わなかった(高専大会のように寝技しかしないのは論外)
とりあえず・柔道ブログ:戦前と戦後の寝技は異質のものお気に入り詳細を見る
プロ柔道家たちによるトーナメント,リーグ,ワンマッチといった形式の試合が行われていた。プロ柔道では当時講道館などの試合では禁止されていた指取りや脚の関節への攻撃,危険な投げ技を解禁し,立ち技を中心にした試合運びやそのための受身の研究など…また,引き分けの撤廃や道着にラインを入れる
2016-03-24 23:19:47