「北条泰時」を考える~”日本唯一の革命家”はさすがに大げさ?では実像は?
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「北条泰時」でtogetterをつくるのです 御成敗式目は立憲主義? - Togetterまとめ togetter.com/li/967541 @togetter_jpさんから
2016-11-24 02:35:50「北条泰時」でtogetterをつくるのです 北条泰時「わたし・・・すべての武士を御成敗式目で救いたい」 - Togetterまとめ togetter.com/li/138181 @togetter_jpさんから
2016-11-24 02:36:09「北条泰時」でtogetterをつくるのです 鎌倉市図書館の【時々の鎌倉のお話】1232(貞永元)年8月10日、武家の法律、御成敗式目ができました~ - Togetterまとめ togetter.com/li/1010483 @togetter_jpさんから
2016-11-24 02:36:53「北条泰時」でtogetterをつくるのです 山本七平botまとめ/常識のルーツであり、日本人の考え方・行き方を方向づけた「貞永式目」とは/~どこの国の模倣でもない固有法・貞永式目~ - Togetterまとめ togetter.com/li/466635
2016-11-24 02:37:37togetter.com/li/1052032 から関連して 「革命の定義」に関して思い出した話 なぜかイスラームの「ウマイヤ朝」から「アッバース朝」への権力交代は、ただの勢力争いでなく「革命」とみなす向きがあるらしい。 ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2… pic.twitter.com/PuIEFLOObv
2016-11-24 09:27:23北条泰時が日本唯一の革命家だ、と言う論はもう30年も前に、山本七平が「日本人とユダヤ人」で展開していた論だよな
2016-11-24 09:02:51「泰時朝臣入道他界之時、臨終熱気責来、冥火燃然歟」(『経光卿記抄』)、「前後不覚、温気如火、人以不寄付其傍」(『平戸記』)と、臨終に際して熱気に苛まれたことがわかり、さらにそれは「極重悪人之故歟」(『平戸記』)とある。
2016-11-24 08:53:33【史実】先ほどの『日本史のなぞ』に関してのツイートがまとめられていました。納得 >「北条泰時」を考える~”日本唯一の革命家”はさすがに大げさ?では実像は? - Togetterまとめ togetter.com/li/1052032
2016-11-24 08:10:12【書籍】先ほど紹介した、朝日新書『日本史のなぞ なぜこの国で一度だけ革命が成功したのか』を読みましたが、”革命”の定義が納得できないことと、泰時の評価が?でした。Amazonでは品切中です。まあ、これで重版かかるでしょうww amzn.to/2git0Db
2016-11-24 08:10:12社会の実態を図るなら、そこの政治史というか人物像にどれほどの意味があるのか。鎌倉幕府の右大将家という屋台骨が解消されないのに革命性とは。或いは政治志向なら足利義満は。式目自体の評価は良いが、寺社を支配だなんて言える実際的な力関係は無い。荘園制による権利発生の原理が残っているし。
2016-11-24 08:52:18あ、さっき式目の評価は良いと書いたが、あれはそもそもの範囲が刑、土地関係、裁判について書かれたものだ。極めて実用的。そりゃ所領に関する裁判になれば、裁判権が幕府機構になるのだから、そうだ。けど、そこにそもそも含まれない範囲はどうなのか。(続く
2016-11-24 09:14:09そもそも土地所有の権利が発生する、荘園制という大きな「在り方」が式目あるいは幕府によって規定されたのでは無いよね? という疑問が。後に現地実務が荘園制での筋道を外れようとすると、裁判による結果として、法律用語的に「悪党」と認定されてしまう事になるが、つまり制度の運用の法かな、と。
2016-11-24 09:20:12まとめに追加。 北条泰時が日本唯一の革命家かはさておき、優れた人物だったことは、明恵という一流の僧家との出会いと師事の経緯で分かる。 d.hatena.ne.jp/gryphon/201203… d.hatena.ne.jp/gryphon/201505… d.hatena.ne.jp/gryphon/201506…
2016-11-24 10:17:18http://www7b.biglobe.ne.jp/~zuiun/90myoue.htm
・・承久の乱の時、落人をかくまったとして幕府から目を付けられ、秋田城ノ介というさむらいが栂尾の山中を捜索したあげく、明恵上人を捕らえて六波羅の北条泰時のもとへ連行した。
北条泰時は上人のことをよく聞き知っていたので、驚いて上人を上座へ移した。そのとき上人は次のようなことを述べている。
「(略)……高山寺は三宝に寄進された殺生禁断の地である。鷹に追われた鳥や、猟師から逃げてきた獣は、皆ここに隠れて命をつないでいる。ましてや敵から逃れてきた軍士が木の下や岩のはざまに隠れているのを、とがめられたら自分が難にあうからと無下に追い出すことが出来ようか。
釈尊はその過去世に、鳩の身代わりとなって全身を鷹の餌とされたり、飢えたる虎に身を与えたりしたこともあったという。
それほどの大慈悲心には及ばなくとも、困っている人々を追い出すようなことはしないし、出来ることなら袖の中にも袈裟の下にも隠してあげたいと思っている。また今後もそうするつもりである。もしもそれが政道のために難儀な事ならば、即時に愚僧の首をはねられよ」
北条泰時には返す言葉がなかった。これが縁で泰時は明恵上人と親しくなり、しばしば高山寺をおとずれ……