室町時代の冨田流(富田流・戸田流)の伝承経緯について

間違いもあると思いますが、開祖念阿弥慈恩より有名な富田勢源や富田越後守までの伝系図を中条流平法研究会の山崎先生の著作や富田家の文献等から簡単にまとめました。 一般的に書かれている富田流の系図では富田九郎左衛門長家と孫の冨田九郎左衛門郷家が混同されるなど、系図が誤っているようです。
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中世平法研究会 @empiken

中條流の伝承経緯については中條流師範家の子孫、山崎正美先生が諸書や武道学研究などで多数書かれています。それらによると、念阿見慈音から学んだのは中條長秀ではなく、孫の満平(中條判官)としています。この説では中条流は中条家伝承の兵法と念阿弥の平法の合併です。

2017-07-22 01:20:37
中世平法研究会 @empiken

満平の後はその子中條左馬介(中條庵主、実田源秀)へ伝承され、その後甲斐豊前守、さらに大橋勘解由に伝わり、この二人のあたりで越前へ伝承が移ったようです。一般の富田流の伝系図では中條家三代が書かれず、中條長秀→甲斐豊前となっていますが、山崎家等の伝書ではこのように解釈できるとか。

2017-07-22 01:26:28
中世平法研究会 @empiken

武術の伝系図というのは師弟関係をそのまま示していない例があります。念流の伝書でも、小笠原家で数代伝承されている部分を「代々伝承」と省略している場合があります。中条流に関しても中條家に関して「此の家数代」との記述がある伝書があるものがあると山崎先生は書かれています。

2017-07-22 01:29:11
中世平法研究会 @empiken

越前に伝わった中条流は甲斐豊前守(美濃守常治)から嫡子神山八郎左衛門と朝倉家七代孝景、大橋勘解由の三人が伝承したとあります。中条流は朝倉家の武士の中で伝承されます 甲斐常治 ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2… 朝倉孝景 ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D…

2017-07-22 01:41:15
中世平法研究会 @empiken

富田家の系譜については一般的によく知られていないので少し説明をします。 富田家の平法初代は富田九郎左衛門長家(慈源)で、この人は大橋勘解由左衛門より中条流を学んだとされています。兄弟子に山崎右京亮がいましたが、戦死してしまい富田長家が継いだとされています。 pic.twitter.com/N0clDWLuRK

2017-11-26 00:18:35
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中世平法研究会 @empiken

もともと富田九郎左衛門長家は山崎右京亮の家にやっかいになっていた浪人で、五十歳の時に大橋に入門し、七年で免許皆伝になった。また本来継ぐはずだった山崎右京亮が戦死したので、右京亮の二人の子供に中条流を返傳した、と山崎家の古文書にはあります。(つまり正統は山崎家だ、という文書です)

2017-11-26 00:22:07
中世平法研究会 @empiken

それで富田長家の子が富田治部左衛門景家、その子供たちが長男九郎左衛門郷家、二男五郎左衛門隆家、三男治部左衛門景政です。この二男隆家が有名な富田勢源です。また長男郷家は比較的早くに亡くなったためあまり知られていませんが、豊臣秀次の師長谷川宗喜は郷家の弟子です。

2017-11-26 00:25:10
中世平法研究会 @empiken

長男郷家が亡くなり、二男隆家は耳が悪かったため家督を継がず、三男景政が富田家を継ぎます。このひとの長男景勝は戦死してしまうので、景政の娘を嫁にしていた山崎重政(右京亮のひ孫)が富田姓となり富田越後守を名乗ります。これが前田家一万三千石の名人越後です。

2017-11-26 00:28:53
中世平法研究会 @empiken

九郎左衛門を名乗ったのが初代長家と孫の郷家、治部左衛門を名乗ったのが二代目景家と子の景政がいたので、どうも富田家以外では混同されていたのか、後の武芸関係の書籍では富田勢源が九郎左衛門の長男とされている事が多いようです。実際には勢源は九郎左衛門長家の子である治部左衛門の二男です。

2018-03-04 00:01:06
中世平法研究会 @empiken

勢源の兄が九郎左衛門を名乗った郷家ですが、この長兄は早くに亡くなったためか、現在ほとんど名前が知られていません。ですが、弟子には長谷川宗喜や印牧市右衛門、阿波賀兵道など後に一派を開く人物が複数いました。そのため余計に高名な祖父である九郎左衛門長家と混同されたのかもしれません。

2018-03-04 00:01:07